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【ひとりぶらりこ企画】 帝国時代の残光を辿る~横須賀・猿島編(その3) 

猿島編:その1
猿島編:その2

※一部写真はクリックで拡大可(640*480)


【開かずの扉】

発電所のそばを通り過ぎ、微妙な勾配の微妙なカーブの坂道を上りながら、小山を切り崩して造ったという“切り通し”の幹道へと向かう。
切り通しこの露天掘りの幹道、元々は砂利道か土道の素朴なものだったのだろうが、今は石畳と手すり付きの木板を敷いて馬鹿丁寧に整備されている。個人的にはこういう余計なことをするんじゃないとも思うのだが、まあここを観光用地として活かしたい部分もあろうて、いくらか手を加える必要はあったのだろう。…だろう。…だろう。
この切り通しの擁壁となっている石積は、角柱状の「凝灰岩切石」が用いられている。この切石は房総半島西岸で採取された房州石で、裏込めには猿島の海岸に落ちている凝灰石を積み上げ、モルタルを流し込むという工法を採っている。石積は後述する煉瓦と同じく、水平方向のひとつの段に小口と長手の石が交互に現れるという「フランス積み」と呼ばれる積み方で造られている。
兵舎切り通しの坂道に沿った右側(東側)には、坂の頂上に至るまで間隔を置いて、煉瓦造りの入口の兵舎と弾薬庫がふたつづつ交互に並んでいる。アーチ状の入口の両脇に小窓が付いているこの建物は兵舎であり、小窓がないものは弾薬庫として使われていた。

弾薬庫そしてこちらは小窓がない方、すなわち弾薬庫。この部屋の奥隅には、「揚弾井」と呼ばれる井戸のような縦穴が開いており、これを使って真上の砲台へと弾薬を運んでいたという。また、弾薬庫の真上の土地では、地下の弾薬庫と連絡を取るための円形の土管を利用した「伝声管」も見つかっている。ほら、昔の船のクルーがパイプ管に向かってごにょごにょ言うシーンを映画か何かで観たこともあろう。そう、あの類だ。
現在、これらの兵舎や弾薬庫の入り口はフェンス、ないしは板によって塞がれているため、内部に入ることはできない。中に入って何か悪さする輩を防ぐためというのもあろうが、内部崩落の危険防止というのがいちばんの理由だろう。この島は1923(大正12)年の関東大震災によって施設群が損害を受けたという経緯があるのである。もちろん、後の防空砲台構築に向けた再利用のために修復・復旧させた箇所もあろうが、そのまま放置の箇所もまたあるのだ。
さあ、ではそんな開かずのフェンスの先は今いったいどんな具合なのだろうか。珍しくフラッシュとやらでも焚いて撮ってみようじゃないかうわっはっはっは。
弾薬庫内部2弾薬庫内部…まあこんな具合だ。

中はアブナイ。うむ。

さて、この各部屋の入口を彩る煉瓦造りのアーチ。周囲の石積と同じく、煉瓦の積み方は「フランス積み」となっている。
おお、煉瓦よ煉瓦。フランス積みの煉瓦どもよ!そうだ諸君、私はこれを見るためにはるばるここまで来たのである。


【その煉瓦、仏流につき。】

西洋建築材料である煉瓦が、日本の建築物や構造物に使用されるようになったのは幕末以降になってからである。最初に日本で製作された煉瓦は、1857(安政4)年に長崎海軍伝習所の技術教官として来日したオランダ海軍の技術将校、ヘンドリック・ハルデスが焼いた「ハルデス煉瓦(こんにゃく煉瓦)」で、次が横須賀製鉄所の煉瓦とされている。建築物としては幕末期の反射炉(砲身製造用の溶解炉)が最初とされ、初の煉瓦工場は1870(明治3)年に大阪府堺市に設立された。
小口積み

※上:「小口積み」、下段左より:「フランス積み」、「イギリス積み」
フランス積みイギリス積み煉瓦の積み方は一般的な「小口積み」や「長手積み」をはじめ数種類あるが、ここ猿島要塞の場合は「フランス積み」と、1887(明治20)年頃から主流となった「イギリス積み(狭義のオランダ積み)」のふたつの積み方に分かれる。
フランス積みとは、水平方向のひとつの段に小口と長手の石が交互に並ぶ積み方である。ベルギー西部からフランス北端にかけての北海沿岸、フランドル地方で発達した積み方のため、正式には「フランドル積み」という。
それに対しイギリス積みは、小口の石だけの段と、長手の石だけの段が交互に重なる積み方をする。ちなみにイギリス積みとオランダ積みは基本的に同じであるが、角周りの積み方に違いがあるという。
猿島のフランス積みの煉瓦は、1884(明治17)年に竣工した猿島砲台の本体、先ほどの弾薬庫や兵舎、トンネルなどに見られ、イギリス積みの煉瓦はその後の増設施設、電気灯機関舎(発電所)や第二砲台司令所付属室などに見られる。つまり、「その2」編で取り上げた発電所は1895年(明治28)のため、イギリス積みによる建築物ということである。
フランス積みの煉瓦建造物はもともと数が少なかったこともあり、現在ではこの猿島要塞も含め、「長崎造船所小菅ドック」、「アメリカ海軍横須賀基地内倉庫(旧横須賀製鉄所・ドライドック)」、「富岡製糸場」の4ヶ所が確認されているのみである。


【猿島煉瓦物語】

フランス積煉瓦そんな猿島の煉瓦は、「東洋組西尾分局士族就産所(愛知県西尾市)」、「小菅集治監(東京都葛飾区)」で作られたものである。
東洋組とは、明治維新後に士族授産(元侍の救済)を目的として明治15(1882)年頃設立された窯業会社で、西尾分局(愛知県西尾市)と刈谷分局(同刈谷市)などがあり、煉瓦、瓦、セメントなどを生産していた。東洋組の製品は皇居御造営、陸軍省、東海道本線などへ納入された。そして猿島では、1881(明治14)~1884(明治17)年に作られたフランス積みの建造物にその煉瓦が使用されている。
西尾分局は明治18(1885)年に天工社と改称しているため、西尾分局の刻印のある煉瓦の供給期間は、ほぼ猿島要塞の起工から竣工時期と重なっている。
一方、小菅集治監は煉瓦を製造していた盛煉社の施設群が1878(明治11)年に買い上げられて拘置所となったもので、以降関東大震災で施設群が打撃を受けるまで、囚人労働として煉瓦が焼かれていた。
「集治監」は内務省直轄の刑事施設として、府県の管轄する地方監獄とは別に設置され、長期刑の国事犯や政治犯を収監するための監獄施設である。小菅集治監は中央監獄として国内で最初に設置された集治監(もうひとつは宮城収治監)で、そこで作られた煉瓦は「囚人煉瓦」とも呼ばれ、集治監製であることを示す「桜」のマークが刻まれているのが特徴となっている。
小菅の囚人煉瓦は東京湾要塞のほとんどの施設で使用されているほか、銀座の煉瓦街にも使用され、大山史前学研究所(大山柏邸)跡地などでも出土している。
道中、横倒しになっていた煉瓦の柱の残骸を検めてみたのだが、残念ながら刻印の発見までには至らず。残念賞。内側にあるのだろうか。

坂道を登りきって少し進んだところで、ひとまず切り通しの幹道は終わりとなる。その最後を飾るのはこの物件である。
便所1便所2…便所跡である。

そこを過ぎるとカーブの緩やかな下り坂となり、その先にはトンネルが待っている。

猿島上空2-a


つづく。

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【ひとりぶらりこ企画】 帝国時代の残光を辿る~横須賀・猿島編(その2) 

猿島編(その1)。

※一部写真はクリックで拡大可(640*480)

【右江百八十 左江九百五】

猿島上空

海軍港石柱ゆらゆら船を降り、貧乏桟橋をてくてく歩いて逝く。しばらくすると、視界の先に何やら細くて長いモノが現れる。それは石碑というか、石柱というか、石碑であった。
その横須賀湾を臨む正面にはこう彫られている。

「海軍港 南正眞 直經九百五

猿島。今はエコ・ミュージアムを謳う東京湾のこの静かな無人島は、その昔、帝国海軍の管轄下(関東大震災までは陸軍の管轄)に置かれた軍事拠点のひとつであった。そう、ここはかつて「猿島要塞」と呼ばれた、東京湾防衛の一角を担った“要塞の島”だったのである。


【猿島要塞って何さ】

“要塞の島”としての猿島の歴史は、江戸時代後期まで遡る。
1847年(弘化4)、江戸幕府は異国船による江戸湾侵入を防ぐため、猿島の南東部、北端、北東部を大きく切り崩し、それぞれを大輪戸、亥ノ崎、卯ノ崎として日本初となる「台場(大砲を据える台座)」を建造した。後の“要塞の島”は“お台場”からそのキャリアをスタートさせたのである。
時は移り明治時代中期になると、明治政府は東京湾口の護りを固めることを目的とし、台場に代わって新たに洋式砲台と要塞を猿島に建造する。
「要塞」とは、外敵を防ぐための防護施設である。兵舎や弾薬庫、あるいは司令室など、すべての施設が岸壁を掘り込んで造られているため、島の外からは内部の様子がまったく見えないという構造となっている。ビバ要塞!
さて、明治時代の東京湾要塞には、千葉県の富津岬と神奈川県の観音崎を結ぶ湾口部(観音崎-富津ライン)を護る砲台群と、横須賀、長浦港の両軍港を護る砲台群とがある。この猿島砲台は観音先砲台とともに前者に属し、湾内を通過する敵国の艦船を砲撃すると同時に、海堡(海上要塞)を支援することが主たる任務であった。
砲台には艦船の迎撃用として、27㎝、あるいは24㎝口径のおフランス製の加農砲(カノン砲)が配備された。しかし、1923年(大正12)の関東大震災でその一部が崩壊したことや、長距離砲の発達、海戦から航空戦への主流戦術の転換などにより、猿島が実戦で使われることは一度もなかった。やがて猿島の砲台は陸軍砲台から除籍され、以降は海軍の管轄下に置かれることとなる。
海軍への移管以来、適切な運用方法が見出せぬまま長らく放置の憂き目に遭っていた猿島要塞であったが、1936年(昭和11)より、再び軍事施設として甦ることになった。
Osami_Nagano.jpg当時海軍大臣だった永野修身は、横須賀鎮守府司令長官の米内光政に対し、猿島に8㎝高角砲4基と射撃の指揮、照空装置や空中聴音機、対空監視哨などの設置を指示する。海から空への主流戦術の変化に応じ、猿島要塞は今度は「防空砲台」として新たな役割を担うことになるのだった。
1941年(昭和16)頃からは鉄筋コンクリート製の円形砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備された。そして1945年(昭和20)8月15日の敗戦のその日まで、猿島の高射砲はひたすら空を睨み続けたのである。ただし、猿島には実戦の記録がないということから、その高射砲が睨んだ先の空に向かって火を噴いたことがあるのかどうかは定かではない。
敗戦後、高射砲は占領軍の手により解体され、島はアンクルサムに接収されることとなった。
猿島の“要塞の島”としての歴史は、そこで幕を閉じたのである。

さあ、少し歩こうかね。


【コイルを回せ】

海軍港の碑の脇を通り過ぎ、木々の多い茂る切り通しへとつながる坂道を進む。なだらかとも急ともつかぬ微妙な坂道を上るにつれ、「ヴーンヴーン」と唸るような音が耳を突くようになる。
P1030339.jpgこのヴンヴン音は、左手に見えてきた小屋から発せられていた。
そこは発電所であった。音の正体は発電のモーターか何かの駆動音である。現在の動力は何かわからないが、島の電力はここからの自家発電により賄われている。
猿島を紹介しているwebサイトの中には、この建物をかつての「兵舎」としているところも散見するが、そうではない。この建物は今も昔も「発電所」である。
この建物が完成したのは1895年(明治28)。蒸気機関による発電所として造られた。
P1030360.jpg建物の構造は、レンガ積みだけで自立した壁と、「木造キングポストトラス」という小屋組の屋根で構成されていた。写真を見る限りでは、煉瓦積みの壁は補強のためかカモフラージュのためか、つまらん色のコンクリートで重ね塗られてしまっている。いつ頃そうなってしまったのかは不明だが、あるいは猿島が「防空砲台」として再利用されることになった1936年から45年までの間のことだろうか。コンクリの剥がれ具合からして、最近の話ということではないだろう。剥がれたコンクリートの隙間から、往時を偲ばせる煉瓦が姿を覗かせている。見栄えとしてはフル煉瓦の方がいいじゃねえかとも思うのだが、まあ諸々の事情でそういうわけにもいかんのだろう。
屋根については、オリジナルのものは崩壊してしまったのか、現在はグリーンのトタン屋根となっている。
建物内部には気罐室と発電機室、石炭庫があり、気罐室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水層の存在が確認されている。そして、ここで作られた電気は建物の裏から切り通しを伝い、島の中央部高台にある照明所に送られていたという。
発電所の奥の崖には浅い壕がいくつか掘られていた。壕の手前がフェンスで仕切られていたため、残念ながら間近で検分することは叶わず。掘られた当時の用途は定かではないが、現在は資材置き場になっているようだ。

猿島上空a

つづく。

【ひとりぶらりこ企画】 帝国時代の残光を辿る~横須賀・猿島編(その1) 

※一部写真はクリックで拡大可(640*480)

【本日天気晴朗なれども波高し】

十六条旭日旗

神奈川県は横須賀市。

カレーと海軍で有名なこの港街の、横須賀湾に面した一角にその公園はある。
東郷像2銅像のモデルとなっているのは、明治37(1904)年からの日露戦争において、旅順港閉塞作戦や黄海海戦、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊を滅ぼした日本海海戦などを指揮した海戦の雄、東郷平八郎元帥その人である。そして像の背後に鎮座ましますは、東郷元帥(当時中将)が座乗した連合艦隊の旗艦、三笠(みかさ)。この公園が三笠記念公園と呼ばれる所以はここにある。

名将の指揮の下、数多のロシア艦を轟沈せしめた戦艦三笠は、大正12(1923)年のワシントン軍縮条約により現役を退くこととなる。三笠には解体の運命が待ち受けていたのだが、それを惜しむ国民の声により、現役復帰できない状態にすることを条件に保存が許される。かくして戦艦三笠は、「記念艦」として第二の人生を歩むことになったのである。
横須賀は白浜海岸で静かな余生を送っていた記念艦三笠であったが、第二次大戦以降は復讐に燃えるロシア人めの主張でスクラップ&スクラップされそうになったり、定見のない占領軍兵士どもによって「Cabaret Togo」という不遜の酒場兼ダンスホールにされたり、甲板やら扉やらは剥がされどこぞに売り飛ばされたりと、長らくの間不遇の時を過ごすことになる。
三笠しかし昭和30(1955)年を過ぎた頃から、この名鑑の惨状を憂いた三笠建造の地、バーロー・イン・ファーネス出身のイギリス人の嘆きや、戦艦ミズーリ艦上にて、日本降伏受託書に署名したひとりであるアメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督の苦言などを契機とし、国民の間でも保存運動が急速に高まることになる。
保存運動のきっかけが元敵国人の提唱ってのはどうなのよは別として、三笠は寄付金と保存会関係者らの尽力によりお色直しと改装が施され、昭和36(1961)年、再び記念艦として甦ることになったのである。
現在、三笠の中上部は往時を髣髴とさせる姿となっているが、下半分は陸地と一体化し、さながら巨大なオブジェといった様相である。内部はある程度当時の形を残しているが、日露戦争の博物館(主に海戦関係)として機能するよう改装されており、いくばかのお布施をすれば誰でも見学可能となっている。甲板その他も、マストによじ登ろうなどと馬鹿なことさえ考えなければ大方歩行見学が可能である。前艦橋には東郷司令官、秋山真之参謀をはじめとする指揮官たちの立ち位置が記されていたりと往時の状況を偲ぶこともでき、興味ある人にはそれなりな充実感を得られることができよう。

が、私がここに来た目的は三笠見学ではない。


【Perry Island】

三笠の脇にある船の発着場。1時間おきの定期便。片道600円の切符をポッケに、ゆらり揺られて10分余。
横須賀湾沖1.6㎞に位置する小島、そこを訪れるために私はこの横須賀の地にやって来たのである。
私が目指した小島、そこは獄門島という…

猿島

…のは嘘である。そこは猿島、別名ペリー・アイランドと呼ばれる無人島である。
猿島なれどモンキー・アイランドにあらず。無断で浦賀に乗り込んだ黒船のおっさんの名を冠した通り名を持つこの島で、私はいったい何を見ることになるのだろうか。

つづく。

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