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そうだ、「トロピコ」をやろう。 

「HoI2のリプレイ」はアフリカ&中国大陸制覇で一段落。そのザッピング先である黒猫氏のとこはコンガもといボンゴもといコンゴ物語で疲弊+風邪+多忙でしばらく心のリハビリを要す状況。
ってことで、かねてからやろうやろう思いつつなんだかんだで放置状態だったトロピコの「極端国家シリーズ」、再開いたします。
今度はどんな無茶な国家体制で臨むかについては近日上梓の予定。

しばし待たれよ。

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本音で読み解く米朝次官級協議 

kimhill.jpg

改訂版・世界駄目駄目紳士録:スパイマスターは逃亡者~アロイス・ブルナー 

中東の 不穏の陰に シリアあり

とまでは大げさなのかも知れないが、それでも中東、特にイスラエル周辺で湧き起こる数々のキナ臭い事件の影には、シリア・アラブ共和国と、同国の諜報機関の暗躍がチラチラ見え隠れしてやまない。イランとの秘めたる共闘、エルサレムで頻発する自爆テロの黒幕、ベイルートでの要人暗殺、兵を退いてなお残す諜報の網…。
そんな香ばしきシリアの諜報機関、イダラート・アル-アムン・アル-アンム(総合保安庁)の存在感はここ数年他の追随を許さない勢いであるが、それはバッシャール・アサド大統領の下で急成長を遂げたわけではない。成り行き的に国家元首になってしまった穏健な現シリア大統領には、国政に係る権限は小さく、かつその影響力は乏しい。近年のその突出は、先代のハフェズ・アサド政権時代からの周辺人物たちによる神の見えざる屁と踏んだ方が正しいだろう。
そんな素敵なシリア諜報機関の今日の発展と香ばしさの礎は、先代のパパ・アサドの時代にしっかりと築かれたものである。そしてその開花に至るまでの成長の影には、とある追われる身のオーストリア人の多大なる貢献と寄与があったのである。

そのオーストリア人の名は、アロイス・ブルナーといった。


brunner1.jpgアロイス・ブルナー。元ナチSS(Schutzstaffel=親衛隊)の大尉であり、「最後の大物ナチ」と呼ばれる人物である。
かのユダヤ人問題最終解決責任者、アドルフ・アイヒマンSS中佐の“右腕”として知られ、第二次大戦中、ブルナーの手によって128,500人余のユダヤ人(含系)が死に追いやられたとされている。
当然ながら戦争犯罪者としてフランス、西ドイツ、ポーランド、ギリシャの4ヶ国から指名手配され、欠席裁判で計4回もの有罪判決を受けているものの、その身柄は一度として拘束されたことはない。というか、今となってはその生死すらもはっきりしていないのである。
著名なる“ナチ・ハンター”、シモン・ヴィーゼンタールが生涯追い続けて結局果たせず、イスラエル諜報機関「モサド」も仕損じたこのオーストリア人、もしまだ存命であるなら、今年で95歳になる。
ブルナーは第二次大戦終結後、オーストリアや西ドイツで暮らしていたが、追及の手が迫った1950年代半ば、ヨーロッパ大陸から逃亡した。以降、公式上の確たる足取りとしてはそこで途絶え、形としては現在に至るまで「行方不明」のままとなっている。
しかし、ひとつ明確なことがある。この戦争犯罪者を匿い、自国の諜報機関の父として奉り上げた国があるのだ。

それが、シリア・アラブ共和国である。


アロイス・ブルナーは1912年4月8日、オーストリアのローブリュンにて農家の息子として生まれた。1927年に学業を終えた彼は、しばらくは室内装飾業者やデパートの販売員として働いていた。
1931年、ブルナーは19歳の時にオーストリア・ナチ党に入党し、SA(Sturmabteilung=突撃隊)隊員となった。街頭で吼えたり酒場で「ホルスト・ヴェッセル」を歌ったりユダヤ人商店のガラスを叩き割ったりといったSAのクラブ活動が忙しくなり、結果彼はデパートの仕事を辞め、ナチ党一本の生活へとシフトする。
brunner2.jpg「アンシュルス」と呼ばれる1938年のドイツによるオーストリア併合の後、26歳のブルナーはウィーンに赴き、SSに入隊。そして彼の運命を決めることとなる、SD(Sicherheistdienst=保安防諜局)での勤務がはじまるのである。
第二次大戦が勃発した1939年、ブルナーは「移民」とは名ばかりの、ドイツやオーストリアのユダヤ人放逐のために作られた「ユダヤ人移民中央局」 に配属となり、その建立者であるアドルフ・アイヒマンの下で働くことになった。
同年10月、ブルナーの手により、ウィーンやモラビアに住んでいたユダヤ人912人の最初の移送が行われる。その逝き先はポーランドはルブリンの一画、ニスコのゲットー(ユダヤ人居住区)だった。この最初の“仕事”についてブルナーは、「移送はつつがなく遂行された」と報告書に記している。
brunner4.jpgブルナーSS少尉は「職務に忠実かつ熱心な男」として、常に要求されるよりも多くのことを達成していた。そんなブルナーをアイヒマンは「部下の中で最も優秀な男」と評したという。
1940年、ブルナーは秘書だったアニ・ローダーと結婚。同年、SS中尉への昇進も果たすと同時に、アイヒマンの後釜として「ユダヤ人移民中央局」の局長となった。以降、ブルナーはユダヤ人の東方への移送を徹底的に組織化し、SS内でも才能ある成功した男として高く評価されるようになる。
ちなみにここで言う「移送」とは、良くてゲットー(ユダヤ人居住区)、悪くて強制収容所、最悪で絶滅収容所へ送られることを意味する。要するに単なる追放ではなく、死地への片道切符である。そこへ送られた者の多くは即座に殺されるか、緩慢に死んでいくかの運命が待ち受けていた。そこでは生きることの方がはるかに困難なことであった。生き延びるためには大いなる奇跡と強運を必要としたが、それは往々にして自分を救うだけの力しか持たなかった。誰もが、家族の誰かしらを失っていた。
「移送の専門家」ブルナーは、1941年の2月から3月にかけて、再び多くのユダヤ人をウィーンからポーランド中南部キールスへと移送する。そして10月にはさらなる数のユダヤ人が東方@死地へと移送された。
さて、オーストリアでその辣腕を発揮したブルナーは、1943年になると第三帝国占領下のギリシャへと飛ぶ。サロニキスやマケドニア、サラスといった地域に在住していたユダヤ人の東方送りの陣頭指揮を執り行い、結果、サロニキスに至っては実に96%のユダヤ人が移送されたという。
同年5月にブルナーがそこを立ち去るまで、50,000人余のユダヤ人が死地へと送られた。そして処刑と飢餓と過酷な強制労働の結果、戦後生きて故郷へ帰って来ることができたのは、わずかな数の若者だけだった。母子、妊婦、老人、病人は役立たずとして、迅速に殺害されたという。
7月になると、ブルナーSS大尉の活動の場は今度はフランスへと移った。それはパリ郊外のダランシーにあった拘置所の監督である。それまで拘置所はヴィシー・フランス政府によって管理・運営されていたが、ブルナーの赴任と同時に収容者の待遇は一気に悪化した。拘置所はアウシュヴィッツ送りとなるユダヤ人ための一時収容所として使われることになった。
その頃から、ブルナーは逮捕の対象を当該ユダヤ人のみならず、その親類にまで拡大させるようになった。要するに、一族郎党根絶やしにしようということである。
trans.jpgブルナーはパリのSS行政官として、当地の「ユダヤ人専門家」、ハインツ・ルートゲルSS大尉と共にユダヤ人の摘発に精を出し、強制収容所や絶滅収容所への“供給”を間断なく続けた。また密告を奨励し、通報者には報奨金として1,000フランを支払った。密告に基づく逮捕は大概夜更けに行われ、逮捕者はゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei=秘密国家警察)の取調室で脅迫や拷問が徹底して加えられた。その自白によって、さらなる仲間の居場所を引き出そうというシステムである。
その年の秋、ユダヤ人の“狩り場”の地域はイタリア統治下の南フランスにまで拡大された。ブルナーの“仕事”は終わらなかった。
1944年6月6日のD-デイ、連合軍によるノルマンディー上陸から第三帝国の雲行きはいよいよ本格的に怪しくなる。パリの街を闊歩していたドイツ兵たちが足早にそこを去って行く中、しかしブルナーは踏み留まって相変わらず職務に専念していた。7月にはパリの1,327人のユダヤ人の子どもたちがアウシュヴィッツへ送られた。8月にようやくブルナーがパリから離れるまでに、延べ22回の移送、23,500人余のフランス在住のユダヤ人がアウシュビッツへと送られたのだった。
1944年の9月から翌2月まで、第三帝国崩壊が序曲から佳境へと向かう中、それでもブルナーは職務に忠実だった。ブラチスラヴァ、スロヴァキアといった地域でブルナーは己が任務をひたすら忠実に遂行し続け、かの地の12,000人余のユダヤ人を「死のキャンプ」へと送り込んでいたのだった。

そして戦争の終結と共に、アロイス・ブルナーSS大尉は忽然と姿を消すのである。

ブルナーはどこへ逝ったのか。


戦後しばらくの間、アロイス・ブルナー元SS大尉は偽名を使い、アメリカ軍の輸送トラックの運転手としてリンツとミュンヘンを往復する日々を送っていた。その間、妻のアニ・ブルナーは戦争未亡人としてウィーンに戻り、長女のイレーネを出産している。長女の出産後、ブルナーは密かにウィーンに戻り、足繁く妻と娘の元に通っていたという。
しかし1946年になると、ウィーンで戦争犯罪者「アロイス・ブルナー」の名と、その逮捕状が出たこと囁かれはじめる。危険を察知したブルナーは、その身を「ゲーレン機関」に寄せることにした。

Gehlen.jpg「ゲーレン機関」とは、アメリカのCIA(当時はCIG)の支援の元に、ドイツ国防軍中将だったラインハルト・ゲーレンが設立した西ドイツ最初の諜報機関であり、現在のBND(Bundesnachrichendienst=連邦情報局)の前身でもある。ゲーレンは対ソ戦当時、ソ連に反発するバルト地域の出身者やソ連軍捕虜を巧みに活用し、アプヴェール(Abwehr=ドイツ国防軍情報部)やSDとも異なる独自の諜報網の確立に成功した、対ソ諜報のエキスパートであった。米ソの東西陣営の対立が日に日に香ばしくなっていた当時、アメリカはゲーレンの対ソ諜報能力を高く評価し、彼を新諜報機関の長として白羽の矢を立てたのである。
ゲーレン機関発足当時の諜報員は、元SS(含SD)や元ゲシュタポがやたら多かった。というのも、そもそもが対ソ戦略を目的に諜報機関を設立したため、大戦中に高度な対ソ諜報網を確立していた彼らの置き土産をどうしても必要としたのである。加えて、西ドイツが東側陣営との境に位置している以上、西ドイツ諜報機関は必然的に当初から高い諜報能力が求められていた。つまり、素人集団でスパイごっこというわけにはいかなかったのである。そしてその香ばしき過去とは別に、SSやゲシュタポには諜報活動に関してズバ抜けて優秀な者が多かった。そのためCIGとゲーレンは、過去の戦争犯罪の不問を餌に、彼らを釣らざるを得なかったのである。
こうして、ゲーレン機関には追われる身の元SSや元SDや元ゲシュタポたちがぞろぞろと集まることになった。アロイス・ブルナー元SS大尉もまた、そうしたひとりであった。
追われる者たちの避難所と化したゲーレン機関において、ブルナーは「カール・シュパーク」の名で対ソ諜報活動に従事することになった。

しかし安泰はそう長くは続かなかった。

1954年1月5日、フランスの法廷はアロイス・ブルナー元SS大尉に対し、本人不在のまま「不当逮捕」、「虐待」、「略奪」、「傷害」、「殺人」の罪で有罪判決(死刑)を下した。判決を受け、復讐に燃えるフランスはブルナー包囲網を激しく強化し、今やその所在を確実に絞り込みつつあった。ゲーレン機関の傘の下にいるとはいえ、このまま欧州にいては自分の逮捕は時間の問題と危惧を募らせたブルナーは、欧州大陸からの脱出を画策し、ゲーレン機関の“同志”たちに助けを求めるのだった。
その“同志”のひとり、ブルナーのパリ時代からの盟友でもあるルドルフ・ビルトは、ゲーレン機関の諜報員であると同時にODESSA(Organaisation Der Ehemaligen SS-Angehorigen=元SS隊員組織:オデッサ)のメンバーでもあった。ビルトは「バチカン・ルート」でブルナーをヨーロッパから脱出させることにした。

「バチカン・ルート」を経由し、欧州大陸から脱出した元SSの数は実に多かった。アイヒマンをはじめ、「ガス殺トラック」の考案者ヴァルター・ラウフ、ゾビボル強制収容所所長だったグスタフ・ワグナー、「リヨンの虐殺者」クラウス・バルビー、「ゲシュタポ・ミューラー」ことハインリヒ・ミューラー、「アルデアティーネの大虐殺」の処刑人エーリヒ・プリーブケといった層々たる顔ぶれが、バチカン・カトリック教会の庇護の下、素性と過去を隠して南米や中東、あるいはアメリカ合衆国といった新天地へと向かったのである。
hudal1.jpg逃亡の段取りのほとんどは、バチカン・カトリック教会の司教、アロイス・フーダルの手によるものだった。フーダル司教は強力な反ユダヤ兼反共主義者であり、カトリック教徒もナチの弾圧対象であったにも関わらず、熱烈なるナチのシンパであった。彼は事あるごとにナチとカトリック教会との統一を熱く語っていたという。
フーダル司教は逃亡者のためにパスポート、出国ビザ、労働許可証といった書類を一揃え用意してやり、宿泊所を整え、移動手段を確保し、賄賂や非常時のためにと資金援助までしていた。
また、フーダル司教は西ドイツ赤十字、進駐軍(アメリカ)、さらにはMI-6(イギリス諜報機関)にまで幅広く顔の利く人物でもあった。こうした顔役的な機関を抑えているということは、すなわち逃亡がより容易になることを意味していた。
そんなフーダルの人脈・金脈をフル活用し、追われる者たちはバチカン経由で続々と南米や中東へと逃走した。その数は30,000人余とも言われており、ドイツ人やオーストリア人に限らず、数千人のウクライナ人やラトビア人などのナチ協力者たち(含SS義勇兵)もそこに含まれた。
この「バチカン・ルート」の完成された逃走経路に比べれば、ODESSAやDie Spinne(=The Spider:蜘蛛)といった元ナチのための支援組織などアマチュアに等しいとさえ言われている。
いずれにせよ、ミュンヘン、ハンブルグ、エッセン、ボンといった各地の同志たちのアジトを転々としながら、オランダのアムステルダムへ抜けたブルナーは、そこからローマに飛んだ。そこでフーダル司教の助け得て偽のパスポートを手にした彼は、エジプトのカイロへと姿をくらますのだった。

そしてその年の春、「ゲオルグ・フィッシャー博士」なる人物が、シリアはダマスカスの地に降り立った。

アロイス・ブルナー元SS大尉は、新しい名前と新天地を手にしたのである。


それから数年、ブルナーはシリアでドルトムントのとある醸造会社の代理人として働いた。しばらくは平穏な日々であったが、追及の手はこの中東の地にも及ぶのだった。
1959年、ブルナーのシリア逃亡が濃厚と踏んだ西ドイツ、オーストリア、フランス、ギリシャの4ヶ国は、シリア政府に対し、アロイス・ブルナー元SS大尉、今はゲオルグ・フィッシャー博士を名乗るその人物を、戦争犯罪者として身柄を引渡すよう要求した。しかしシリア政府はそのような人物はわが国には存在しないと一蹴。そしてその時から現在に至るまで、シリア・アラブ共和国はアロイス・ブルナーの存在を一貫して否定し続けているのである。
むしろこの身柄引渡しの要求によって、シリア政府はフィッシャー博士の正体を知ったのかも知れない。SSとゲーレン機関を渡り歩いたその“華麗”な経歴を活かさぬ手はないと考えたのだろう。1960年、シリアの諜報機関であるイダラート・アル-アムン・アル-アンム(総合保安庁)は、ゲオルグ・フィッシャー博士ことアロイス・ブルナー元SS大尉に接触し、彼を「ユダヤ人問題の専門家」として迎え入れたのである。既に彼のための新しい住居も用意されていた。
かくして、アロイス・ブルナーは再びスパイとしての生活に舞い戻ったのである。しかも今度はただの諜報員ではなかった。腕と頭脳と経験とを買われ、組織の「顧問」として招聘されたのである。当時まだ未熟だったシリア諜報機関を“プロ”にすべく、ブルナーは己が培ってきた経験と成果を彼らに注ぎはじめるのだった。
eichman1.jpg同じ年の5月、ブルナーの“師匠”であったアドルフ・アイヒマン元SS中佐が、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関「モサド」のピーター・マルキン率いるチームの手により逮捕、というより誘拐された。睡眠薬を打たれて眠らされた彼は、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空の旅客機に押し込められ、イスラエルへと送還された。

アイヒマンはエルサレムの地で裁判に付された。

シリアから程遠くない場所に位置する、ユダヤ人の国イスラエル。

ブルナーの動向を、彼らは指をくわえて眺めていたわけではなかった。むしろ、もっと直接的な行動をもってアプローチを掛けるのだった。アイヒマンが逮捕され、ブルナーがシリア諜報機関の顧問となった翌年、彼はモサドから一通のラブレターを受け取った。一見無害なその手紙は開封した途端に爆発し、ブルナーは片眼を失った。
その1961年という年は、片眼を失っただけでなく、ブルナーにとってはいろいろと厄介な年であった。フランスの諜報機関SDECEは、ブルナーのシリア在住を完全に突き止め、在シリアのナチ戦犯リストに彼の名を公式に含めた。また11月には、パリ時代にタッグを組んでいたハインツ・ルートゲル元SS大尉が逮捕された。ルートゲルは戦後、フォルクス・ワーゲンの顧問弁護士として働いていたのだった。
Eichmann2.jpgしかしこうした数々の不穏な事実も、ブルナーには一時的な効果(不安)しか与えることができなかった。
それは1962年に執行されたアイヒマンの処刑とて同じであった。

ブルナーは精力的にシリア諜報機関イダラート・アル-アムン・アル-アンムの師として、彼らの「教育」に心血を注いでいたのである。ユダヤ人に関する知識、逮捕術、暴徒の鎮圧方法、効果的な尋問、確実に自白を引き出す拷問といったレクチャーを続け、同機関の成長と発展に貢献・寄与し、その香ばしさの礎を築くことに成功していた。
こうして、半ば機関の影の長として君臨したブルナーには数々の伝説も生まれるようになった。アイヒマンを救出すべく特殊作戦を画策したとか、ブルナー個人のためのシリア人親衛隊を組織したとか、ハフェズ・アサド大統領の側近になったとか…。
冷静に考えればありえねえだろと言いたくなるような話ばかりではあるが、それはシリアにおけるアロイス・ブルナーの存在と、彼がそこで担った部分の大きさ、与えた影響の度合いを物語るひとつの側面なのかも知れない。
シリア政府の手厚い保護の下にいる限り、ブルナーは安全だった。

しかし、追っ手は彼を忘れたわけではなかった。

1980年7月、ゲオルグ・フィッシャー博士宛に、オーストリアの消印の付いた一通の手紙が届いた。差出人は「ハーブ友の会」とあった。その謎の協会名に、ブルナーは“同志”の香りを嗅ぎ取ったのだろう。だからこそ無警戒にブルナーは封を開けたわけだが、20年前と同様、その瞬間手紙は爆発し、彼の左手の4本の指を吹き飛ばした。それはモサドからの2通目のラブレターであった。
以降、シリア政府はブルナーの身辺警護をより一層強化し、常時護衛が付くようになったという。


政治・外交上では、戦争犯罪に問われている元ナチ親衛隊員のアロイス・ブルナー、あるいはゲオルグ・フィッシャー博士なる人物はシリアには存在しないし、過去にも存在したことはない、ということになっている。
しかしながメディアにおいては、ブルナーは間違いなくシリアに存在することが証明されている。というか、どういう風の吹き回しなのか、彼は自ら姿を現したのだった。
brunner3.jpg1985年、西ドイツの雑誌「Bunte・11月号」は特集記事として、シリアの首都ダマスカスで暮らすアロイス・ブルナー元SS大尉のインタビューと近況写真を掲載した(参考:「Simon Wiesenthal Center Multimedia Learning Center Online」、アロイス・ブルナー関連資料『62』~『74』)。
そのインタビューの中でブルナーは語っている。

「戦争中、私はやましいことは何ひとつしていない」
「イスラエルが私を捕まえるのは絶対無理だ」


それを受け、イスラエルの国連大使ベンジャミン・ネタンジャフは、国連総会において「ブルナーは今も変わらずシリアで暮らしている」と訴えた。
1987年には、ブルナーは「シカゴ・トリビューン」紙のインタビューにも応じ、また「シカゴ・サン・タイムス」紙との電話でのインタビューではこう答えている。

「ユダヤ人は死に値するんだ。 私はまったく後悔していない。機会があるなら、私は再びそうするだろう」

さらに、オーストリアで季刊誌「Halt」を発行しているジャーナリスト、ゲルト・ホンジックとは彼の著作「Freispruch fur Hitler?」のために、ダマスカスのアパートで長時間に及ぶインタビューに応じている。
ホンジックは、ブルナーは気難しい怒りっぽい老人であり、信頼を得るためには長い時間を要したと言う。
そのインタビューの途中、ホンジックはブルナーに尋ねてみた。

ホンジック:あなたはユダヤ人の毒ガス殺人についていつ知りましたか?

ブルナー:戦後。新聞でさ!


ホンジックはブルナーが関わった領域はあくまで「強制移送」の部分であり、大量殺人には直接関与してないと位置付けている。ホロコーストは連合国のプロパガンダだと信じてる節すらあるという。要するに、彼は職務に忠実なナチの官僚ではあったが、人格そのものに問題があるわけではないという見立てである。その一端を物語る例として、ホンジックはひとつのエピソードを挙げた。

1941年頃、ブルナーはとあるユダヤ人と奇妙な信頼関係を築く。その相手とは、「ウィーン戦時ユダヤ人協会」会長のヨーゼフ・ローウェンヘルツである。ローウェンヘルツはパーラス博士、ワイツマン秘書官、トロッペル財務担当官を伴い、ドイツの公式認可の下、「世界ユダヤ人議会」の代理としてポルトガル(当時中立国)のリスボンでブルナーと面会した。ローウェンヘルツらは、第三帝国統治下のユダヤ人の大量避難についての交渉にやって来たのだった。それはドイツ(含オーストリア)在住のユダヤ人を、連合国(イギリス)に拘留されている多数のドイツ人と交換しないかという提案だった。もっとも提案自体は物別れに終わったのだが、その時の様子をブルナーはこう述懐する。
「私のオフィスに入った時、ローウェンヘルツは泣いていたんだよ」
会合の過程で、ブルナーはローウェンヘルツの人格に深く打たれることになる。
「あのユダヤ人のリーダーは本当に高貴な人だった…」
と、ブルナーは語る。インタビュアー(ホンジック)は意地悪く質問をしてみた。
「彼がユダヤ人だとしても?」
「彼は例外なんだ!私を試そうとするんじゃない」


いずれにせよ、ブルナーの計らいにより、ローウェンヘルツと彼の家族は最後まで拘束・移送の対象とはならず、戦後になってローウェンヘルツは、公式の場でブルナー擁護の発言を繰り返した。
とはいえ、ブルナーの手によって125,000人余のユダヤ人が「死のキャンプ」に追いやられた事実は変わらない。彼のいくつかのメディアへの露出によって、同年、インターポール(国際刑事警察機構)はついにブルナーの生存と所在が確認されたとし、「Red Notice(国際的な逮捕状)」を発行した。※現在は解除されている模様
それでもブルナーは捕まらなかった。いくらブルナーがメディアに露出しようとも、シリア政府がその存在を公式に認めない限り、各国はどうにも動けないのである。イスラエルとて、もう手紙爆弾は通用しないだろうし、ましてやアイヒマンのように強引にさらうという挙を犯すわけにもいかない。
ブルナー捕獲作戦は手詰まりになりつつあった。比例するように、ブルナーがメディアに登場する機会も減った。1990年代の初頭、最後に彼にインタビューしたのは、「ワルシャワ反乱・見殺しのレジスタンス」を書いたドイツの戦史家、ギュンター・デシュナーだった。


結局、アロイス・ブルナーはどうなったのか。

どうにもならないままである。しかし罪は消えることはない。1995年、ドイツ政府はブルナー確保に繋がる情報に333,000㌦の懸賞金を掛けた。1999年、フランスの法廷は1944年にブルナーがユダヤ人の子どもたちをアウシュヴィッツに送り込んだ件で、345人についてその事実が証明されたとして終身刑を言い渡した。しかし本人は不在である。さらに2001年、「人道に反する罪」でブルナーに対し、再び終身刑を言い渡した。もちろん本人不在のままである。

断罪はされたものの、当の本人はまだ生きているのか。

Brunner5.jpgそれもわからない。諸説入り乱れている。ひとつの説としては、ブルナーは1991年10月までダマスカスで暮らし、その後ファヘズ・アサド大統領の故郷でもあるラタキア市に移ったということである。
そして1999年の終わりにまことしやかに流れた話としては、彼は1996年、そのラタキアの地で死んだということである。
しかしながらその後、シリアを訪れたあるドイツ人ジャーナリストは、ダマスカスのメリディアン・ホテルで暮らすブルナーの姿を見たと言う。

結局、真相はわからない。

しかしブルナーの戦争犯罪に対する判決は、彼がまだ生きていることを前提に下され、彼の拘束をまだ諦めていない人々も存在する。「アウシュヴィッツの死の天使」ヨーゼフ・メンゲレのように、その死が間違いなく証明されない限り、ブルナーに対する追及は止むことはないだろう。かといって、進展も期待できないわけだが。
ただ少なくとも、人間の寿命としてそれ以上生きることはあり得ないとされる年まで、彼は追われ続けるのだろう。それはもしかしたら、既にこの世にいない人間を追い求めることになるのかも知れない。しかし、死んだことがはっきりしてない以上、彼は生きているものとして捉えねばならないのだろう。

まもなく、彼は95回目の誕生日を迎えようとしている。確かにそれは激しく高齢ではあるが、死んだと言い切れる年齢でもないのだ。

たとえばエーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、今日もまだ、今この瞬間も生きている

leftyがここに熱も突破しないです(BlogPet) 

ぎ兎はここまでleftyがここに熱が突破するつもりだった?
leftyがここに熱も突破しないです。
ここに頭も突破するはずだったみたい。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ぎ兎」が書きました。

オッス、オラ風邪! 

のど痛くて鼻水止まんなくて熱もじゃんじゃん上がって38度線突破して頭ぐらぐらなのに、オラなんだかすっげえワクワクしてきたゾ!

続きを読む

【重要】 来たる東京都知事選に関する弊ブログの公式見解 



以上。

Guicho Zurdo:千年帝国の野望~「Hearts of Iron・Ⅱ」のリプレイ(その13)  

経過はコチラにて


遠い夜明け~1944年11月19日-20日

1944年11月19日19:00 : 第13軍団がティベスティに到着。



総統閣下の忠実なる下僕、ゴルビ犬が総統執務室に入った時、ぎ印ドイツ帝国総統Guicho Zurdoはルンルンの表情で受話器を戻しているところだった。総統閣下の電話嫌いをよく知るゴルビ犬はその姿に首をかしげた。
「お珍しいですな」
「電話は最近のわしの楽しみのひとつでな。ものまねもそうじゃ。電話でものまね、これ最強」
ぎ印ドイツ帝国の総統はフンフン鼻歌交じりに社長椅子へと腰を下ろした。
「さて犬よ、中国の動向はどうなっとるかの」
「時間の問題ですな。おそらくは冬の間にすべて解決されましょう。そのことも含めて閣下、詳細は御前会議にて。重大なご報告があるのです」

ゴルビ犬に導かれ、Guicho Zurdoは謁見の間へと足を踏み入れた。偉大なる総統閣下の登場を見るや否や、将軍連は一斉に立ち上がった。Guicho Zurdoは上座の席に陣取ると、皆に着席するようあごで示したが、ひとりの背の高い将官だけはそのまま直立不動の姿勢を保っていた。カーキ色のアフリカ軍団の制服に身を包んだその高級将校は、ナイロビから戻ったばかりのアフリカ軍団の長、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥であった。
1936年3月のルクセンブルグ電撃侵攻作戦より、ぎ印ドイツ帝国のために最も長く戦い続けてきたこの古強者は、老いながらも日焼けした精悍な表情をGuicho Zurdoに向けた。総統閣下の顔を見るのは何年ぶりになるだろう。ルクセンブルグ、パリ、マジョルカ島、アレキサンドリア、カイロ、そしてナイロビ…。俺はいかに故国を遠く離れ、長きに渡り戦い続けていたことか。胸に去来する万感の思いを抑え、元帥は静かに、しかし力強く言った。
「閣下にご報告します。われわれぎ印ドイツ帝国アフリカ侵攻軍は、イタリア、ポルトガル領を除くアフリカ大陸の全域を掌握しました」
Guicho Zurdoは背後のスクリーンの方を向いた。その動きに呼応するように、モーンケ少将が素早くプロジェクターを起動させた。やがてスクリーンに映し出されたアフリカ大陸の地図。見れば、その3/4以上の地域が灰色に塗りつぶされている。ようやく終わったか。ついに広大なるアフリカ大陸を制したのだ…。総統閣下は感慨深げに何度も頷くと、やがて居並ぶ将軍連の方に向き直り、厳かに言った。
「皆の者、よくやった。アフリカ侵攻作戦はただ今をもって終結を宣言する。作戦に参加した全将兵を労い、ここに心よりの感謝の言葉を述べたい」
謁見の間は将軍たちの歓声と拍手に包まれた。偉大なる総統閣下は手を挙げてそれを制すると、アフリカの地から凱旋帰国した英雄を指し示した。
「ぎ印アフリカ軍団を率いたルントシュテット元帥にはその武勲と功績を称え、ぎ印ダイヤモンド剣柏葉騎士十字勲章を授けたい。階級も上げてやりたいところだが、あいにく元帥以上の階級はない。すまんが、わしの心の大元帥ということで我慢してくれんかな」
再び将軍たちの拍手と笑いが弾けた。さらに総統閣下は続けた。
「さて、ルントシュテット君はこの後すぐナイロビに戻り、手勢を率いてダルエスサラームに向かいたまえ。中部以南の連中はケープタウンに集合じゃ。その後の指示は追って通達する」
将軍たちの笑みが硬直した。水を打ったような静けさの中、ひとりの将官が勇気を振り絞って総統閣下に尋ねた。
「閣下、われわれは欧州を席巻し、インド亜大陸を制し、中東・アフリカの主要地域を抑えました。…もう充分かと思われますが」
「確かにわしらは欧州の覇者となった。アフリカもわしらの手に落ちた。が、それでイギリスめは降伏したかね?ド・ゴールも相変わらず元気そうじゃ。アンクル・サムに至っては本陣に傷ひとつ付いとらん。つまりわしの戦いはまだまだ終わらんということじゃ。連合諸国どもめをことごとく叩くその日まで、わしの戦いは延々と続くんじゃ。アフリカ大陸掌握はひとつの通過点に過ぎんのじゃ」
勇気ある将官はなおも食らいついた。
「閣下、われわれは史実を覆し、数々の偉大なる勝利を手にしました。これ以上何を求めるのです。そもそものわれわれ民族の生存圏の拡大という目標、これはかなり前の段階で達成されているはずです。この戦争、果たして全世界を戦場にしなければならないほどの大義がありましょうか。この先、閣下はどうされるおつもりなのです?オーストラリアを攻めますか?アメリカ大陸に乗り込みますか?いったい何のために?われわれは必要以上の領土と属国と資源と力とを手にしました。この上まだ欲するものがあるとでも?それはいったい何です?今や戦いの趨勢は完全に枢軸同盟に傾いてます。われわれはいつでも勝利宣言できる段階なのです。もう戦う必要はないのです。閣下、今われわれが成すべきことは、連合に講和を持ちかけることです。彼らは負け続け、疲弊しています。われわれの提示に喜んで応じましょう。事実上の降伏勧告です。彼らから最大限の譲歩を引き出し、この戦争を終わらせるのです。敗者に慈悲を示した閣下は勝利者として、世界の覇者として、歴史に深くその名を刻むことになりましょう。閣下、われわれは長い間戦い抜きました。充分過ぎるほどの勝利を手にしました。もういいでしょう。もう終止符を打つべき時です」
その将官の熱弁に、周囲の将軍連は無言の同意で応えるのだった。ぎ印ドイツ帝国総統Guicho Zurdoは深い慈しみの目で件の将官を見やり、そしてやさしく尋ねた。
「少将、名を何という」
「ヴォルフであります」
「所属は?」
「未配属であります」
Guicho Zurdoはゆっくり頷くと、傍らのゴルビ犬の方を向いた。
「犬よ、この少将殿のプロフはどうなってるね?」
ゴルビ犬は手元の資料をパラパラめくり、当該将校の項目を読み上げた。
「ヴォルフ陸軍(国防軍)少将…、スキル:1、経験値:0、防戦ドクトリン。…こんなところですな」
「ふむふむなるほど…。ところで犬よ、ベルリンに余剰の兵力は残ってたかの?」
「手近なところで第28守備隊師団がございますが」
「大変よろしい。…さて、ヴォルフ少将よ」
総統閣下は再び将官の方に向き直り、続けた。
「よかったな。配属先が決まったぞ。貴官は今この瞬間より、第28守備隊師団の師団長としてグリーンランド駐屯の任を命ずる。先に島送りになったハンガリー軍ともども仲良くせい。ということで、逝ってこい」
哀れな将官は飛び上がった。
「閣下!」
非情の総統閣下は冷徹に言い放った。
「グリーンランドはいいぞお。夏は寒くて冬はもっと寒い。食い物は知らんが氷と雪は無駄に多いから水に困ることはない。ただしカナダが近い。くれぐれも攻め込まれぬようにな。健闘を祈る」
「閣下、あなたは間違っている!」
「連れてけ」
その声を合図にどこからともなくふたりのぎ印親衛隊の隊員が現れ、ヴォルフ少将の両脇を抱えると、椅子から引きずり降ろして連行して逝った。将軍たちはただ呆然と成り行きを見守るしかなかった。
やがてぎ印SS隊員とヴォルフ少将が扉の先の暗がりへと姿を消し、オーク材の扉がギィバタンと閉まった。凍りつくような静寂の中、総統閣下は将軍連に向かって陽気に尋ねるのだった。
「さて、何かほかに意見はあるかね?」

意見などあろうはずがなかった。

執務室に戻った後、総統閣下とその側近はモニターでアフリカの占領地域を検めながら、事後の統治について検討をはじめた。
「掌握はよいとして、やはりアフリカは広大だの。治安の維持が逝き届かんわい。不満分子が問題起こした折の火消しが実に厄介じゃ」
「どうされます?」
「不平と反抗より感謝と恭順じゃ。すべての火種は独立で鎮火する。属国でも自治権さえあれば奴らは満足じゃ」
「は。してどこから?」
Guicho Zurdoはカーソルをアフリカ南部に移し、しばし沈思した後、ゴルビ犬に命じた。
「まずは南アフリカを」
「かしこまりました」
「それからその上の一帯をローデシアとして独立させよ。まかり間違ってもジンバブエにするでないぞ。ローデシア以外は認めん」
「は」
総統閣下は国民不満度の数値を見やった。「16.4%」。もうひとつくらい大丈夫だろう。
「ナイロビからダルエスサラームまでの東海岸沿いを統合する。そこらは東アフリカ連合じゃ。頭目はケニヤッタでもモンダッタでも誰でも構わん」
「了解しました」

1944年11月20日、南アフリカ、ローデシア、東アフリカ連合がぎ印ドイツ帝国の属国として独立を果たした。

同じ頃、失意のヴォルフ少将と第28守備隊師団を乗せたグリーンランド逝きの輸送船が、ロストクの港を出航した。


蒋介石の選択~1945年1月22日-30日(黒猫暦:1940年3月7日

ゴルビ犬の予測通り、ぎ印ドイツ帝国と大日本帝国、東西の枢軸軍勢に詰めに詰められた蒋介石率いる国民党はその冬、ついにひとつの決断を下すのだった。

1945年1月22日0:00 : 中国(国民党)は巨龍、滅ぶにおいて “日本に慈悲の心があることを祈ろう…” を選択したとのことです。
1945年1月22日0:00 : 日本が中国(国民党)との和平を受諾。条件は:元の状態への復帰
1945年1月22日0:00 : 日本は中国の滅亡において “従順な傀儡政権を中国に樹立する” を選択したとのことです。
1945年1月22日0:00 : 日本が中国(国民党)を併合。
1945年1月22日0:00 : 日本で “日本がアジアの地図を塗り替える” が発生。
1945年1月22日0:00 : 日本で “中国に勝利した!” が発生。
1945年1月22日0:00 : 中国(国民党)の人々が日本からの独立を宣言。
1945年1月22日0:00 : 日本で “中国の支配権を獲得” が発生。
1945年1月22日0:00 : 日本が中国(国民党)を属国化。
1945年1月22日0:00 : 中国(国民党)で “中国:日本の駒” が発生。



巨龍、滅ぶ。歴史を塗り替えた偉大な勝利にも拘わらず、ぎ印ドイツ帝国総統Guicho Zurdoのご機嫌はあまり芳しくなかった。
「西の厄介な方面から詰めたのはわしらじゃ。なのになんで日本が主役か」
「元々は彼らの戦争ですからね。われわれは後から一枚噛んだに過ぎません。この結果もやむを得んでしょう」
「フン、がんばって損したわい」
「中国地域で残るは毛沢東の共産党だけです」
ふと、ゴルビ犬は思い出したかのように付け加えた。
「そういえば黒猫の世界では毛沢東は早々に表舞台から消えたようですな。1940年の1月下旬頃のようですが」
総統閣下は眉を上げた。
「報告書読むのすっかり忘れとったわ。猫めは今何をしとるんか」
「アシカ作戦を成功させたようです。大英帝国が滅びました。お決まりのようにチャーチルはカラチへと落ち延びてます」
「フン、イギリス侵攻までは誰でも成功するわい。問題はその後じゃ。バルバロッサ作戦が成功するかどうかで歴史が変わるんじゃ」
「彼奴は既にいくつかの歴史を変えてますよ。ヴェーゼル演習作戦にストップをかけ、スコットランドを独立させてます」
総統閣下は眉根に深いしわを寄せた。
「スコットランドを独立だと?…生意気な。犬よ、“百合”は今どこにいるんじゃ?」
「百合?」
「お前が猫めの世界に送り込んだ回し者じゃ」
「“薔薇”です、閣下」
「花は花じゃ。どっちでもええわい。で、どこにおるんじゃ」
「あちらの世界のベルリンにいるはずですが」
「直ちにスコットランドへ飛ばせ。猫めの居場所を突き止めるんじゃ。その後の指示はわしが直接伝える」


―――もうひとつのスコットランド(黒猫ドイツ)

グラスゴーのブキャナン通りへとつながる十字路に着いた“薔薇”は、街灯に寄りかかり、手にした地図を開きながらさりげなく通りの様子を窺った。既に日は落ちて長かったが、独立を祝う宴は今が盛りであった。あちこちにスコットランドの国旗がはためき、散った紙ふぶきが地を埋めていた。通りは表に繰り出した人々でごった返し、乾杯と歓声に満ち溢れていた。
その様子を見て、薔薇は安堵の微笑を浮かべた。このお祭り騒ぎならよそ者の私に注意を払う者もいないだろう。それでも用心深いこのぎ印SD要員は、ともすれば目立ちやすいその容姿を少しでも隠そうと、ソフト帽を目深にかぶり、コートの襟を立てて通りの中へと歩みはじめるのだった。
誰にも見咎められることもなく、やがてとある小さなパブにたどり着いた薔薇は、手にした紙片と店の名前をもう一度確認した。「Mammoth」。ここだ。薔薇は窓から店の中をそっと窺った。熱気のせいかガラスは曇り、複数の影がぼんやりとうごめく姿しか見えない。薔薇は上品に毒づくと、静かにパブの扉を開けた。店内のこもった熱気が薔薇の顔をなで、扉の上部に付けられたカウベルがカランカランと音色を奏でた。薔薇は思わず顔をしかめた。ひんやりとした外気と来客を告げる音色が客たちの注意を引くではないか。しかし、幸いにも店内の喧騒が鈴の音色をかき消し、アルコールが客たちの体感を鈍磨させていた。新参者の登場を気に留める者は誰もいなかった。薔薇はその幸運に小さく感謝しながら、店の中へと足を踏み入れた。
乾杯と談笑の輪を静かに通り過ぎ、薔薇は店の奥へと向かった。やがてカウンターの隅っこに陣取った薔薇は太ったマスターに飲み物を注文すると、静かに飲みはじめた。すぐ脇の柱時計のガラスに、地元民と談笑するポテンテの姿が映っていた。絶好のポジションだ。薔薇は薄く微笑むと、今度は電話のありかを探った。
それは薔薇のいるカウンターの隅からさらに向こう、トイレにつながる通路の脇の奥まった場所にあった。あの暗さならカウンターの客には見えまい。薔薇は続く幸運に感謝しながらそっと席を立ち、電話の場所へ向かい、作業を開始した。
数分後、席に戻った薔薇は時計のガラスに映るポテンテを観察しつつ、再びグラスをちびりちびりと傾けるのだった。

カール・ポテンテ補佐官、かつて黒猫ポンセと呼ばれたその猫は、スコットランドの独立を祝うその夜を存分に楽しんでいた。彼はこの上なく上機嫌であり、地元民との談笑に花を咲かせ、延々と続く乾杯に応じていた。
そんなポテンテの頭脳と身体はじわじわとスコッチのアルコールに侵食され、彼は既にほろ酔い加減を通り越しつつあった。

そろそろよかろう。ガラスに映るポテンテを観察していた薔薇は、もう彼が程よく酔ったと踏み、グラスを拭くマスターを手招きした。そして店主に何事か耳打ちすると、一枚のメモとチップを手渡すのだった。

地元民と談笑するポテンテの前に新たな飲み物が運ばれた。それはグラスではなくコーヒーカップに入っていた。ポテンテはにやりとして言った。
「おいおい、〆のコーヒーはまだ早いんじゃないかマスター。夜はこれからだぜ」
太った店主は首をすくめた。
「ただのコーヒーじゃねえよ旦那。そいつは『ジャーマン・コーヒー』っていうカクテルでさあ。キルシュ30ml、グラニュー糖1杯、ホットコーヒー適量、生クリーム適量。超簡単かつあんたにぴったりのカクテルだ」
ポテンテはゲラゲラ笑い出した。
「そいつは皮肉かい?まあ、あんたの奢りなら喜んでいただこうか」
店主はぶるぶると首を振った。
「いやいや、あそこのお客さんからでさあ。あんたにそいつを作ってやってくれってな。…あれ、いねえや」
薔薇のいたはずの席は空だった。カウンターには飲みかけのグラスと何枚かの紙幣が置かれている。ポテンテはさして気にすることもなく店主に言った。
「…ま、トイレにでも行ったんだろうよ。戻ったらご挨拶にでも行くさ」
それには答えず、代わりに店主はポケットから一枚の紙片を取り出し、ポテンテに手渡した。
「それと、そのお客さんがこいつも渡してくれってよ」
ポテンテは謎の客からの一杯を味わいながら、手渡されたメモを開いた。そこにはとある電話番号と、メッセージが添えられていた。

「goKorea」で大変なことが!至急連絡願う。


「なんだこりゃ?」
ポテンテはメモをひらひらさせながら店主に尋ねた。太った店主は再び首をすくめた。
「知らねえよ。俺は渡せって言われただけでさあ。ま、気になるなら自分で確かめるこった。電話は奥にあるから自由に使いな」
店主は丸々と肥えた指で奥の暗がりを指差した。
なんでこの世界とgoKoreaが関係あるんだよ。ごにょごにょとぼやきつつ、ポテンテは談笑の輪から離れ、おぼつかない足取りで電話の場所へと向かった。

冷静に考えればgoKoreaに電話など通じるはずがないのである。しかし酔っていたポテンテは何の疑いも抱かず、メモに記された番号を回すのだった。やがて通じた先の第一声を聞き、ポテンテのこれまでの心地よい酔いは一気に悪酔いへと化した。
「Ayumi Hamasakiが良くて~」
最悪だ。最悪に過ぎる。
「…」
「BoAはドイツで人気ありますか?」
「…」
「静かですね~ここは何を話しますか?」
酔いとは違う激しいぐらぐら感を覚えながらも、ポテンテは努めて冷静に言った。
「…こんなとこまで嫌がらせですか、閣下」
「閣下は誰なのか知らなくて>_<」
殺してやろうか!しかしここで怒ってはGuicho Zurdoの思う壺であることをポテンテは知っていた。彼はともすれば酔いに任せて爆発しそうになる自身を必死に抑えながら言った。
「あなた以外に誰がいるんです?それとその機械翻訳な話し方はやめてくれませんかね。色付きフォントも無用です」
「機械ではなく人間だったりkkk...」
「朝鮮笑いもやめてください」
「笑うを禁止するはどうしてゴギエソツルトな島です?」
我慢ならん!ポテンテは爆発した。
「いい加減にしてください閣下!」
受話器の向こうからぎ印ドイツ帝国総統の高笑いが響いた。
「うわっはっはっは。せっかくの祝祭の夜。そうカッカすることもなかろうに」
「怒らせてるのはあなたでしょ!迷惑です。切ります」
「まあまあ怒るでない。今日はだな、お祝いの、言葉を、言います、思います、スコットランド独立の、歴史を変えたことの
「普通に言えばいいでしょ。そうですか。祝辞のお気持ちだけいただきます。ありがとうございました。さようなら。二度と話しかけないでください」
「わしはまだ何も言っとらんわい。一言くらいお祝いの言葉を述べるくらいよかろうに。お前はそんなに了見の狭い男か」
「………なら一言だけ許可しましょう。それ以上言ったら蹴り出します
総統閣下は陽気に言った。
「メロング」
「…ぶっ飛ばしますよ」
「シバルノム」
死にやがれ!!
酔いの勢いに任せてポテンテは荒々しく受話器を叩きつけた。酔っていた彼は、そこに仕込まれた罠についてあまりにも無警戒だった。受話器のフックが勢いよく下がり、そこに結び付けられていたピアノ線がピーンと張ったのである。それは薔薇の仕掛けが作動した瞬間であった。
天井までつながっていたそのピアノ線は、そこでバケツを支えていた板を勢いよく外した。支えを失ったバケツは横倒しになり、中の沸騰したジャーマン・コーヒーが、ポテンテの頭上から大量に降り注いだ。

カール・ポテンテ補佐官の長く尾を引いたその悲鳴は店の外まで漏れたが、独立を祝う歓声と祝杯の声とがそれをかき消し、表で待機していた薔薇以外に気づいた者はいなかった。
ポテンテの悲鳴を聞き届けたぎ印SD要員は、与えられた任務が成功裡に終わったことを知った。
薔薇は控えめに微笑むと、祝賀の雑踏の中へと姿をくらますのだった。

つづく。

きょうぎ兎がここへ再開しないです(BlogPet) 

きょうぎ兎がここへ再開しないです。
ここへとこみたいな再開された!
きょうはleftyは再開したかったみたい。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ぎ兎」が書きました。

諸君、私はブログペットなる生きものを飼うことにした。 

それはいちばんお前にふさわしくないコンテンツだという正当なご指摘は猛烈な勢いで却下する。それは私だって千も承知だ。しかし私はどうしても飼いたいのだ。
ほかのペットとの交流だのコミュニティだのには興味はない。だが気になるじゃないか↓

>あなたのブログの記事から面白いと思う言葉をおぼえていきます。

>あなたがブログを更新すればするほどペットは新しい言葉をおぼえます。


さあ兎をクリックせよ。モノ覚えの早い奴は既にこんな言葉を話すようになっている↓

「ポテンテ!」
「陥落♪」
「首相ほしい?」

どうなのか。
さらに奴は話すだけに留まらないのである↓

>ペットたちはブログに記事を書くようになります。

ペットめはこれまで私が放った地球にやさしい語彙を基に適当に記事を構築し、無断で上梓するのだという。私でない何かが私の言葉で私でない文章世界をここに築き上げるのだ。ブログ・ジェネレーターよりも数段格上のこの無駄な機能、見逃すわけには逝くまい。

ということで今後、怪しくかつ破綻した内容のエントリーが上梓された折は、それは「ぎ兎」めが勝手に書いたものとご理解いただければ幸いです。

奴は私のこの世界でどういう成長を遂げて逝くのだろうか。

mixi日記よりご来訪の皆さまへ 

与太な話も含めてこちらを本陣とする次第であります。
さようならmixi日記。さようなら。さようなら。

Guicho Zurdo:千年帝国の野望~「Hearts of Iron・Ⅱ」のリプレイ(その12) 

経過はコチラにて。


国民党的M&A~1944年2月14日-10月26日(黒猫暦:1939年8月30日-9月20日

百戦錬磨のぎ印ドイツ帝国軍にとって、中国大陸に巣食う軍閥どもなどもはや敵ではなかった。彼らに何か悩みの種があるとするならば、それは果てしなく続く道なき道の悪路であり、遥かなるお山たちの標高であった。インフラ整備度20~40%なプロヴィンスを乗り越えるは容易でないのだ。
西からぎ印ドイツ軍勢、東からは日本、満州、シャムの極東枢軸軍勢に詰められ、各軍閥は敗走に次ぐ敗走を繰り返していた。国民党や共産党こそ頭ひとつ抜けて抗戦の意思は示したものの、装備・物量いずれに勝るぎ印同盟軍を前に、それは無駄な抵抗に等しかった。
中国大陸は着実に灰色と黄色の2色に染め上げられようとしていた。

「この戦いの敵は時間と悪路だな」
モニターの向こうで繰り広げられる軍閥ども掃討作戦の動向を眺めながら、ぎ印ドイツ帝国総統Guicho Zurdoは退屈そうにつぶやいた。その傍らで同じくモニターに目を向けていた側近のゴルビ犬は静かに頷いた。
「国民党はもっとやるかと思いましたが。杞憂だったようですな」
総統閣下は社長椅子の背もたれに身を預け、フンと鼻を鳴らした。
「こんなものか蒋介石は。こんなものか」

しかし、蒋介石はこんなものではなかった。

1944年7月18日、本陣クンミンの陥落を受けたユンナンがまさに降伏しようかというその瞬間、蒋介石率いる国民党がユンナンを合併したのである。今さらそんな貧乏軍閥を合併・吸収したところでどうなる蒋介石よと、Guicho Zurdoは冷ややかに嗤うのであったが、国民党の行動はそこに留まらなかった。
8月6日、国民党はウルムチを失ったシンチヤンを、その10日後には風前の灯の広西軍閥を合併・吸収し、残存のプロヴィンスを手中に収めたのである。モニターの先の奇怪な光景を前に、総統閣下とゴルビ犬は目を見合わせた。
「この火事場泥棒みたいな軍閥M&Aはいったい何か」
その問いに答える言が見つからないゴルビ犬は、さあと首をすくめる以外になかった。

その時、総統執務室の電話のベルがけたたましく鳴った。原則的に電話嫌いの総統閣下はゴルビ犬に代わりに出るよう、あごで指し示した。
その電話は犬宛てのものであった。ゴルビ犬は電話の主と二言三言短いやりとりを交わし電話を切り、そして総統の方を振り向き、言った。
「閣下、“薔薇”から連絡がありました」
「そんなおしゃれな花は知らねえ」
「黒猫の世界に潜り込ませたわが手の者です。あちらの世界で第二次大戦がはじまったとのことです。今ヒトラーが大演説をぶってるとか」
総統閣下は片眉をつり上げると、不愉快そうに口をへの字に曲げ、ラジオのスイッチをひねった。やがて雑音の彼方から、第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの濁声が流れてきた。

…れた大ドイツの回復は目の前にある。しかし、そのドイツの一部を未だ悪辣な手段で占領するポーランドがダンツィヒの返還に応じない以上、我々は相手が誰であろうともドイツ人の権利と安全が保障されるまで戦い続けなければならない!
私は今から、ひとりの兵士として、ひとり国民として…


その吼えるような演説に、ぎ印ドイツ帝国総統Guicho Zurdoはいまいましげにラジオに向かって吐き捨てた。
「絵描き崩れの貧乏ヒゲめが偉そうに。ブルーノ・ガンツと首をすげ替えてやろうか」
ゴルビ犬は黙って腕組みし、ラジオの向こうの演説に耳を傾けていた。

…り遂げる。そして、我ら偉大な民族は、必ずや悲願を達成する!ドイツに抗う者を全て倒すだろう。同胞を!我らの同胞を助けよ!世界に冠たる我がドイツに栄光あれ!


聴衆の大喝采が沸き起こり、やがてその歓声はラジオのノイズと共鳴し、スピーカーのハウリングを引き起こした。その耳を突く不快な音に、ふたりは顔をしかめた。
「聞くに値せぬわい」
渋面の総統閣下がラジオを切ろうとしたその時、ぎ印ドイツ帝国総統とその側近の耳は、歓声と雑音にまぎれて聞き覚えのある声が上がるのを捉えた。

「ドイツ人が生き残るための戦争が、いよいよ始まった。我々がドイツを救うのだ!」


ラジオの前のふたりは再び顔を見合わせた。
「閣下、今のはもしや…」
「うむ。猫めの声だな。貧乏ヒゲをたぶらかしおったのはあやつめか」
Guicho Zurdoは握り締めた拳でラジオのスイッチを叩き消した。その衝撃でプラスチック製のつまみが折れ飛び、デスクに転がり大きく弧を描いた後、端から床に落ちて刹那の旅を終えた。


―――もうひとつのベルリン(黒猫ドイツ)

「モロトフ=リッベントロップ協定」遵守の確認のために訪れていた駐独ソ連大使を見送った後、総統官邸の長い廊下を歩きながら、黒猫ポンセ、今はカール・ポテンテを名乗るその猫は静かに考えた。
開戦緒戦の勝利は予定調和に過ぎん。イギリスとて陥落させるはそうそう難しいことではなかろうて。…となると鍵はやはり対ソ戦をどう凌ぐかにかかってくるわけだ。
ポーランドの分割でソ連との平穏は手にしたものの、そんなものは束の間の休息に過ぎず、いずれは対峙する日が来ようことを彼は肌で感じていたのだった。
先手必勝で臨むべきか、あるいは向こうから仕掛けてくるのを待って大義名分の下に戦う方が得策なのか…。スターリンの大粛清で有能な将官が多数消されたはずだ。叩くなら後釜の台頭前の早い段階の方がよいだろう。しかし今は西の敵も相手にしなければならないのだ。二正面作戦など愚の骨頂だ。とはいえ、ソ連の先手まで待つとすれば、それは彼らが完全に息を吹き返して満を持しての侵攻を受けることを意味する。それを撥ね返す力がないわけではないが、苦しい戦いは避けられまい…。ポテンテはまだ答えを見出せないでいた。
ソ連はあまりにも広大に過ぎる。それに、冬将軍という厄介な自然の脅威もあるのだ。赤い巨人との対決はやはり一筋縄では逝くまい。楽に勝てせてはもらえんのだろうな…。
ポテンテは立ち止まり、深いため息をついた。そしてふと、大国のエゴで国家消滅の憂き目に遭ったポーランドのことを思い出し、一抹の同情を覚えた。しかし彼はその感情を打ち消すかのように首を振った。新世界秩序構築の夢のためだ。恨むなよ。ポテンテはひとり静かにつぶやき、再び歩き出した。
執務室につながる廊下の曲がり角で、衛兵がポテンテに声をかけた。
「補佐官、このたびはおめでとうございます」
ポテンテはその若い兵士を一瞥すると、静かに首を振り、悲しげに微笑んだ。
「一寸先は闇。私たちだっていつああなるか…」
怪訝な表情の兵士を後に残し、ポテンテは執務室へと向かうのだった。

執務室の扉を開けたポテンテは突如視界を奪われた。もうもうたる白煙が彼を襲ったのである。すわ火事か?いや違う。いったいなんだこの煙は?
やがてポテンテはその白煙の正体が水蒸気であることを知った。ふう、火事ではなかったか。こみ上げる安堵感と共に、ポテンテの敏感な耳と鼻は捉えるのだった。芳醇なるコーヒーの香りと、わずかに漂う何かのオード・ト・ワレの香りと。そして「ぐつぐつこぽこぽ」という怪しい音とを。まさか…。
ポテンテは白煙を払いながら部屋に入り、危険極まりない沸騰コーヒーを手にたたずんでいるであろう総統秘書官ニナ兎の姿を求めた。しかし、そこにニナ兎の姿はなかった。彼女の代わりに手紙が一通、デスクに置かれていた。その脇では沸騰コーヒーがぐつぐつと恐怖の滴をまき散らしながら鎮座ましましていた。
はねた滴でところどころ茶色く染まり、水分を吸ってよれよれになった手紙をポテンテはつまみ上げた。表紙には滲んだ文字で「詫び状・総統補佐官カール・ポテンテ様」とあった。ポテンテは苦笑した。沸騰コーヒーの詫びかい。彼女、わかっていたのだな。ポテンテはニナ兎の健気さに満足しながら便箋を開いた。
そこには一文だけ記されてあった。

カップが韓国製であることをお許しください。

              ニーナ・兎・ゲーレン


…論点が違う。論点が違う!論点が違うのだ!!
怒りとも悲しみともつかぬ微妙な感情がポテンテを襲った時、電話が鳴った。
こういうタイミングで電話をかけてくる者はひとりしかいないことを彼は忘れていた。受話器の先のがなり声を聞いた瞬間、彼は電話を取ったことを激しく後悔した。
「ワンワン!おいらゴルビ犬だワン!」
カール・ポテンテは今やはっきりと悟った。自分がこの世で最も嫌いなものは、犬の名を騙るぎ印ドイツ帝国総統にほかならないと。
「…」
「ワンワン!おいら本物のゴルビ犬だワン!」
「…」
「ワンワン!誰もいないの蟹?答えてお栗。何か返事してクレヨン♪」
「…何の用です、閣下」
「よくわかったな」
ポテンテはともすればキレそうになる自身を押し殺しながら言った。
「こういうことやるのはあなたしかいないでしょ。いったい何の用です?『パパは何でも知っている』は結構です。預言も無用です。というか別に用事はないんでしょ。要するにあなたの目的は私への嫌がらせだ」
Guicho Zurdoは小心者の葬儀屋ボナッセラを諌めるドン・コルレオーネのように言った。
「ポンセ…、ポンセ…。わしはそんなに情けない男か?」
かつての雇い主のその言葉にポテンテは一瞬揺らいだが、これまでの仕打ちを思い起こし、己を戒めた。
「ほかに何があるんです」
受話器の向こうでため息が漏れるのをポテンテは聞いた。…今日はいつもと何か違うようだ。ポテンテは受話器の向こうの様子に神経を集中した。やがてかつての雇い主が口を開いた。
「…わしは今日な、お前にヒントを与えるために電話をしたんじゃよ。ゲームの進行に係る、極めて重要なヒントじゃ。それを知るか知らぬかで大きく命運が分かれるんじゃ。国家の行く末を左右するやも知れぬ重大なヒントじゃ」
「…なんです?」
「知りたいか?」
「ええ」
「教えてもらいたいか?」
「…はい」
「無礼な言い草でわしを貶めた者が何食わぬ顔してわしに教えを請わんとするのは猫としてどうなのかの。何か言うべき言葉があるとは思わんかな?ん?どうだねポンセ君」
ポテンテは軽い屈辱感を覚えつつも、どうしても“ヒント”の誘い言葉に抗することができなかった。やむを得まい。ポテンテは仕方なしに言った。
「…閣下、先ほどの非礼をお赦しください。どうか私にヒントをお与えください」
受話器の向こうでGuicho Zurdoの馬鹿笑いが弾けた。
「うわっはっはっは。なんでわしがお前にヒントを与えにゃならんのじゃ。つーかそんなものありゃせんわ。うわっはっはっは。わしはお前が食らいついてくるだろう餌がわかるんじゃ。なぜわしにそれがわかるのか教えてやろう。それはだな、わしが何でも知ってるからじゃ。わしは『パパは何でも知っている』のパパよりも何でも知っ…」
死ね!
ポテンテは荒々しく受話器を叩きつけた。その衝撃で韓国製のカップの中で激しく沸騰するコーヒーが大きく跳ね踊り、液体の凶器と化してポテンテの頭上から降り注いだ。

総統官邸の中庭にポテンテの悲鳴がこだまし、それに驚いたカラスがバサバサと飛び立って逝った。


10月26日、蒋介石の国民党はシーベイサンマを併合した。

つづく。

HoI2のリプレイ再開の狼煙上げ 

黒猫氏のとこは今しばらくコンガもといボンゴもといコンゴ物語が続く模様ですが、こちらは再開の目処も立ち近日中に上梓の予定。

ということで、一足お先にボボボボモクモク…。

改訂版・世界駄目駄目紳士録:スーパー民主主義大統領~アレクサンドル・ルカシェンコ  

lukaandhitler.jpgわしがアドルフ・ヒトラーに似ておるとか抜かす輩がおってけしからん。実にけしからん。いったいわしのどこがヒトラーに似ていると言うんじゃ。まるで他人じゃ。似ても似つかんじゃろうが。

luka-hitler2.jpgまあ、怪しいヒゲや直情的なポーズが似ていると言われればそうなのかも知れんが、仮に千歩譲ってわしとヒトラーが似ているとしてもだな、それは向こうが真似したんじゃ。ヒトラーがわしに似ているだけなんじゃ。逆なんじゃ。勘違いされては困るんじゃ。

Donaldandhitler.jpgつーかわしなんぞよりドナルド・サザーランドの方がよっぽどヒトラーに似とるわい。ブルーノ・ガンツよりもそっくりじゃ。なのになぜそれは誰も言わんのじゃコラ。

lukaticket.jpg申し遅れた。わしの名はルカシェンコ。アレクサンドル・グリゴリェヴィチ・ルカシェンコ。ベラルーシ共和国の大統領じゃ。しかも3期13年間も大統領の座に君臨しておる。つまりわしはとーっても偉いんじゃ。ベラルーシでいちばん偉いんじゃ。生きながらにして既に切手になってしまうほど偉いんじゃ。
何?その切手化は誰の指示か?馬鹿なことを聞くでない。もちろんわしの指示に決まっておろうが。他に誰がいるんじゃ。大統領はわしじゃ。偉いのはわしひとりだけなんじゃ。だからわしが全部決めるんじゃ。それで万事うまくいくんじゃ。
何?それでは独裁?何を馬鹿なことを言っとるか。あのな、よその国で問題が多いのはだな、みんなで物事を決めようとするからなんじゃ。だからみんな好き放題言いおって決まるものも決まらんのじゃ。お前ら少しはわしのやり方を見習え。すべてわしが決定し、他の者は黙ってそれに従う。たったそれだけじゃ。なーんの問題も起きん。わしが決めてわしはハッピー、みんなはアンハッピー。いったい何の不満があるんか。わしのやり方のどこが独裁だと言うんじゃ。あのな、わしは民主主義者なんじゃ。スーパー民主主義者なんじゃコラ。

lukashenko1.jpgそんなスーパー民主主義者のわしの偉大なる経歴でも語ってやろう。
わしは1954年8月30日、旧ソビエト連邦白ロシア共和国ヴィテブスク州オルシャンスク地区のコプイシ村で生まれた。貧乏な農村じゃ。人がいなくて動物と植物ばかりじゃ。ナチュラル僻地じゃ。
わしの出生は不明な点があるとか抜かす奴もおるが大きなお世話じゃ。親父がアル中のジプシーらしくて、わしが物心付かんうちにいなくなったというぐらいじゃ。それだけじゃ。しかしまあ、わしの言葉は「トラシャンカ」、要するにベラルーシ語、ロシア語、ウクライナ語、ポーランド語がごちゃ混ぜになった言語なもんでな、そのあたりで出生の胡散臭さを感じる者もおるのかも知れん。どっちにしても大きなお世話なんじゃコラ。

belmap.jpgところでお前らはベラルーシ共和国のことは知っとるか?
ベラルーシは昔な、「白ロシア(ベロルシア)」なんぞと呼ばれておった。なんで“白”かと言うとだな、たまに馬鹿者めが「雪深いから」とか「人が色白だから」とか言っとるが、ぜんぜん違うんじゃコラ。あのな、ベラルーシにはな、何もないんじゃ。取り柄がないんじゃ。あるのは役立たずの湿地帯ばっかで、何の資源的価値も利用価値もないんじゃ。だから「何もない空白な地」という意味で、“白”と付けられたんじゃ。ひどすぎる。わしの国は欧州のアウターゾーンか。ミステリーゾーンか。トワイライトゾーンか。大きなお世話じゃ。
とはいえ、そんなベラルーシ共和国の首都ミンスクは一応CIS(独立国家共同体)の首都でもあるんじゃな。はっはっはっは。がしかし、それだけなんじゃ。一応の首都というだけなんじゃ。その事実は何の役にも立たんのじゃコラ。

さて、話を戻そう。
中等教育を終えたわしはモギリョフ教育大学歴史学部に入学する。基本的に頭の悪いわしは気合と努力でそれを補ったんじゃ。わしは努力家なんじゃ。学生時代はコムソモール(共産主義青年同盟)のリーダーや学生新聞の編集なんかもやっとった。
1975年に卒業後、そして兵役。まあ時代が時代だけに当然じゃ。わしはブレストの国境警備隊駐屯地の示威(デモンストレーション専門)部隊に配属されてな、1977年までブレスト軍政治指導員をやっとった。
退役後はモギリョフ州シクロフヴスク地区のズナーニエ、すなわち「知識普及(イデオロギー)協会」の書記兼講師になった。労働者相手に熱弁&大演説の毎日じゃ。この時の経験は今に活きておる。lukashenko_army.jpgわしは1979年に晴れて共産党員になったわけだが、その頃また軍に再召集されてな。今度はミンスクの第120近衛自動車化狙撃師団の副司令官(政治部長代理)じゃ。さらに翌年から1982年まではモギリョフ州戦車中隊副司令官じゃ。わしは軍では中途半端に偉かったんじゃ。うわっはっはっは。
この軍務の合間を縫ってな、努力家のわしはベラルーシ農業アカデミー経済学部の通信科で学びはじめた。そんなわしを地区党委員会の書記が注目しておったんじゃな。農業アカデミーを修了後、わしはモギリョフ州シクロフヴスク地区のソフホーズ(国営農場)「ゴロデツ」の支配人を任されたんじゃ。1982年のことじゃ。
lukashenko4.jpgわしは支配人としては優秀じゃった。客人にはおもてなし、農民には容赦なし。わしは堕落は認めん。盗んだり飲み過ぎたり悪さをしたりは許さんのじゃ。制裁じゃ。鉄拳制裁じゃ。グーパンチで制裁なんじゃ。
そんなパワーマンなわしはやはり認められてな、翌年にはモギリョフ州シクロヴスク地区建材コンビナート副社長にもなった。さらに1985年からは「ゴロデツ」の“レーニン”書記、その勢いで1987年からは同地区のソフホーズ(集団農場)の支配人にもなったんじゃ。
で、成り上がりの下地は整ったところで1989年の共和国最高会議選挙に出馬、そして当選じゃ。

議員時代のわしは汚職追及で名を上げてな。なので1993年からは最高議会汚職対策委員会の議長に就任する。わしは「マフィアと戦う男」と評判だったんじゃ。ただしわしの汚職追及というのはほとんどがどうでもいいようなネタだったり、ろくろく証拠もないものだったわけだが、それは内緒じゃ。誰にも言ってはいかん。しかし根拠がないにせよ、わしの“正義の闘士”のイメージは翌年の大統領選挙にも大いに役立ったんじゃ。だーっはっはっは。
大統領選では「工場を半年で再生」、「1年で汚職を駆逐」、「全国民に生活を保証」といった大衆迎合の公約も受けた。お陰でケービチ首相を破って80%の得票率で圧勝じゃ。まあ実際はKGB(国家保安委員会)の暗躍の賜物だったわけだが、もちろんこれも内緒じゃ。誰にも言うでない。
lukashenko2.jpgさて、念願の大統領になったわしは当然ながら権限の強化にご執心。あたり前じゃ。このままではわしの任期はたった2年で終わってしまうんじゃ。ということで、1996年に強引に国民投票を敢行、大統領権限を大幅に拡大。ついでに大統領任期をさらに5年に延長。それを憲法違反だ何だと騒いだ輩もおったが、わしには通用せん。そんな輩は逮捕して牢獄にブチ込んでやったわ。
欧米諸国もわしが民主化から退行してるだの強権政治だのとうるさい。大きなお世話じゃ。わしが「ヨーロッパ最後の独裁者」だと?何を抜かすか。わしは「ヨーロッパ初のスーパー民主主義者」じゃコラ。
その頃から内部にもごちゃごちゃ言いおる輩も出始めた。チギリ首相はわしの最高会議の強制解散に反対しおってからに、経済破綻の責任押し付けてクビじゃ。そこで大人しくしてればよいものをチギリめ、大統領選挙に立候補しようなどと企ておった。生意気なんじゃ。だから銀行時代の汚職をでっち上げて逮捕してやったわ。
ザハレンコ内相はわしの政敵への弾圧が汚いだのと抜かしおった。何を言うか。無礼千万もいいとこじゃ。わしはな、きれい好きなんじゃ。汚い弾圧なんぞしとらんわい。手段を選ばんだけじゃコラ。こいつも当然更迭してやったわ。
ヴィンニコワ中央銀行総裁はわしの財政・金融政策にケチつけおった。あのな、わしは大統領じゃ。いちばん偉いんじゃ。経済なんか知らんわい。これもクビじゃ。クビのついでにループ訴追してやるんじゃ。
さらにはチヒニャ憲法裁長官もカピタン検事総長もごちゃごちゃごちゃごちゃうるさいんじゃ。みーんな更迭じゃコラ。
Belarusdemo2.jpg国民もなんだかごちゃごちゃうるさくなりおった。1999年にはミンスクでわしへの抗議デモで民衆どもが2万人も集まりおった。お前らうるさいんじゃ。治安部隊に弾圧させて首謀者ども牢獄にブチ込んでやったわ。
2001年、わしの任期が切れる年になってしまったんで、しょうがないからわしは大統領選挙やってやったんじゃ。そしたらまた民衆どもめが騒ぎおって派手にデモ活動なんぞやりおったんじゃ。学習能力ないんか馬鹿め。またブチ込んでやったわ。朝日みたいなうるさい新聞社は銀行口座を凍結して輪転機も差し押さえじゃ。わしは「言論の自由」は認めん。わしが認めるのは「言論の不自由」と「わしの言論の自由」だけなんじゃコラ。
lukashenko-tea.jpgで、選挙の結果はどうなったかというとだな、75%の得票率でわしの圧勝じゃ。わしの完全なる勝利じゃ。なのに、OSCE(欧州安全保障協力機構)の選挙監視団の連中は「この大統領選挙は欧州の基準には満たない」なんて難癖つけおった。あのな、ここはベラルーシじゃ。わし国家なんじゃ。欧州の基準なんぞ知らんわい。わしの基準を満たしてれば何も問題はないんじゃコラ。この選挙はな、わしスタンダードに基づくスーパー民主主義の精神に則って行われたんじゃ。その結果わしが大統領に選ばれたんじゃ。何か文句あるんかコラ。

かくして、わし政権はまったく何の問題もなく継続されることになったんじゃ。スーパー民主主義万歳!

lukashenko3.jpg2004年、わしは憲法の「3選禁止条項」とかいう余計な条項を撤廃してやった。憲法がわしに制限かける正当な根拠はどこにもないんじゃ。わしは人は法の下にあるべきものと考えておる。しかしその法はわしの下にあるべきなんじゃ。なぜわしがそこまで言い切れるかというとだな、それはわしが偉いからじゃ。生きながらにして切手になってしまうほど偉いからなんじゃ。
いずれにせよ、これでわし政権3選目への扉は開かれたわけじゃ。クックックック。
そんでもって2006年、またまたわしスタンダードに基づくスーパー民主主義の精神に則って執り行われた正当な選挙の結果、わしは見事3選目を果たしたんじゃ。わし万歳!
この選挙の経過については北海の黒猫めがこと細かにレポートしてるんでそっちを読め。わしは何も言わん。ただ、いくつか気になることはある。「ジョージ・ソロス」ってイスラエル産の食い物け?「集会」って何味で?や、や、「野党」って、う、う、うめえのか?
ちなみにこの北海の黒猫めはmixiでの写真にわしの顔を無断で採用するナイスガイじゃ。

ところで、そんなわしは対外的にはどうなのか。教えてやろう。
わしの外交スタンスというのはだな、ずっとロシア寄りじゃ。一貫して親露じゃ。ロシアが大好きなんじゃ。だからベラルーシとロシアと統合話まで持ち掛けたことがあるんじゃ。
わしは時のロシア共和国大統領ボリス・エリツィンと仲が良くてな。その頃にベラルーシとロシアの「統合プロセス」を進めてたんじゃ。順当に逝けば1996年に「主権国家共同体条約」、1997年に「連合条約」、「連合憲章」、1999年に「連合国家創設条約(統合プロセスの具体化の推進)」、2005年に「ロシアとの単一通貨導入」の予定だったんじゃ。予定では。予定ではな!
putin-luka6.jpgところがロシアの大統領がウラジミール・プーチンめになってから、ガクっと雲行きが怪しくなってしまったんじゃ。プーチンめはわしを冷たくあしらうんじゃ。「ソ連邦のような国家は不要」だとか、「ロシアがベラルーシを吸収する形で連邦国家を構築」とか、「燃料・エネルギー供給に関しては大統領同士で話をする問題ではない」とか、許せんことばっかり言いよるんじゃ。プーチンめは禿のくせに生意気なんじゃ。中途半端な薄ら禿しおってからに。何でわしのように力の限り禿げんのじゃコラ。
Putin-Luka.jpgそれにしてもだ、なんでプーチンはわしと話をする時はいつも嫌そうな顔をするんか。そんなにわしのことが嫌いか。お互い様じゃ。わしもお前が嫌いじゃ。だから2002年、奴が連邦国家不要論なんぞをブチ上げた時はケンカしてやったわ。わしはモスクワ訪問を高らかにドタキャンして煽ってやったんじゃ。そしたら向こうはパイプラインの国有化宣言なんぞで対抗しおった。生意気なんじゃ禿。
というか、わしの統合を推し進めた真の狙いは「ロシア・ベラルーシ連邦国家」の最高国家評議会議長、要するに統合国家の大統領の座で、そのついでにガタガタのベラルーシ経済をロシアに預けてチャラにしちゃおうというわけなんだが、どうやらそれがミエミエで反感食らったらしいんじゃな。
それにしたってこの偉いわしがベラルーシとロシアまとめて統治してやろうというのにだ、お前らいったい何が気に入らんのか。理解に苦しむ。

じゃええわい。わしがロシアにそっぽ向いたらどうなるか教えてやるんじゃ。
ということで同年の11月、チェコのプラハで開催されたNATO(北大西洋条約機構)の首脳会議に逝こうとしたわけだが、チェコ政府めからビザを拒否されてしまった。「ベラルーシは人権を遵守せず、大統領が要求した滞在先のホテルの特別警備は許容範囲を超えている」だと?生意気なんじゃコラ。わしは国交断絶を示唆して、「ビザを出さねばポーランドやラトビアとの国境警備を緩め、不法移民や麻薬の流出を図る」と脅してやったわ。
その件を恨まれたのか、直後のベルギーのブリュッセルでのEU(欧州連合)外相会議では、わしと7人の大臣のEU諸国への入国不許可を決めおった。なんじゃそれは。これでわしはヨーロッパの国はどこへも逝けんようになってしまったわい。さらに追い討ちをかけるように、アメリカまでもがわしに入国ビザを発給しない決定を下しおったんじゃ。いったいどうする気じゃ。結局わしはロシアしか逝けんのかコラ。
putin-luka2.jpgしょうがないんでわしはまたロシアにすり寄ることにしたわけだが、やっぱりプーチンが気に入らんのじゃ。わしはロシアは大好きだがプーチンは嫌いなんじゃ。向こうも多分わしのことが嫌いじゃ。嫌い嫌い同士ではいつかは揉めるがその運命。去年の秋、とうとうわしはロシアと戦争に突入したんじゃ。
といってもな、武力衝突ではない。「エネルギー戦争」じゃ。
わしの国をはじめ、旧ソ連諸国の多くは石油やガスなんかの供給をロシアから受けておる。わしとプーチンとの関係はともかく、国家的にはロシアとベラルーシは兄弟に等しいので、わしの国は最安値でエネル源の供給を受けていたんじゃ。
ところがわしの態度が気に入らんのか、ロシアめは天然ガスの価格を約2倍(100ドル)に引き上げ、石油に輸出関税をかけるとか言いよったんじゃ。わしは頭にきた。なので対抗措置としてベラルーシを通る欧州向けの石油パイプラインの通過料を徴収すると詰めてやったんじゃ。これでまあ戦争の勝機は見えずとも、少なくとも膠着には持ち込めるとわしは踏んだわけだが、恐るべしプーチン。奴は石油パイプラインへの供給そのものを停止しおったんじゃ。殺す気か。そんなことされたらわしはバンザイするしかありゃせんじゃろうが。
結局わしは折れてロシアの言いなりじゃ。「エネルギー戦争」はわしの負けじゃ。すべてはプーチンめのせいじゃ。
しかしプーチンもさることながら、この件で激しく許し難いのは欧米どもめじゃ。今回と同様にウクライナがロシアに詰められた折は、奴らウクライナをわが事のように同情し救いの手を差し伸べんとしたのに、わしの時はなんで何も言ってくれんのじゃ。救いの小指すら見えんかったわ。もうええわい。お前らみんなみんなわしの敵じゃ。
だからわしはもう欧米どもなんか相手にしてやらんのじゃ。わしの今の友人は反米精神高らかなベネズエラのチャベス大統領じゃ。核大好きイランのアフマディネジャド大統領もわしの心の友じゃ。彼とは去年の11月、テヘランでがっちり握手してやったわ。うむ。こうなったらもうキューバのスカトロもといカストロ議長や、ニカラグアのマッシュもといガイアもといオルテガ大統領も取り込んで、飛び石反米インターナショナルでも結成してやるんじゃ。ぐわーっはっはっは。

あ、アメリカで思い出した。
アメリカめが2005年、無断でわしの国を「暴政の残存国家(Outposts of Tyranny)」に指名しおったんじゃ。いったい何のつもりじゃい。気に食わんのじゃコラ。
わしがいったい何をしたと言うんか。兵器を輸出してるだけじゃ。それがたまたまテロリストの手に渡ってるというだけじゃ。あるいはたまたまコロンビアの麻薬組織の手に渡ってるというだけじゃ。わしは需要と供給の関係を相手を選ばず実践してるだけに過ぎん。供給先が怪しいのは要するに運じゃ。すべてたまたまなんじゃ。
かつてイラクにSA-3対空ミサイルを売っぱらってたから何だと言うんじゃ。イラクが欲しいと言うから優しいわしは適正な価格で売ってやっただけじゃ。わしがやったのはそこまでじゃ。何の不正もしとらんわ。フセインがアレをどう使おうとわしは関係ないわい。しかもフセインはもうこの世におらん。いったい何が気に入らんのじゃ。
それともマネー・ロンダリングの件か?それだって何が悪いのかさっぱりわからん。金を洗ってるだけじゃ。汚れた金きれいにして何が悪いんか。金の出所が犯罪組織だろうと麻薬組織だろうと知らんわ。金は金なんじゃ。わしはきれい好きなんじゃコラ。
luka0.jpgあとはわしが人権弾圧やっとるとかいう話か?弾圧なんぞやっとらんわ。わしはわしに反対する輩を投獄したり権利剥奪したり亡命に追い込んだり行方不明にしたりしてるぐらいじゃ。ほかはなーんもしとらん。
何?それが弾圧?言っておくがな、わしは直接手を下したことなんか一度たりともないわい。わしはボソッと命令するだけなんじゃ。そうするとな、わしの気に入らん奴が目の前から消えるんじゃ。それだけの話なんじゃ。
要するに、わしはわしのやりたいようにやってるだけなんじゃ。スーパー民主主義においてはそれはあたり前の話なんじゃ。

だってわし、独裁者だもの。

改訂版・世界駄目駄目紳士録:頑固なる戦争犯罪者~エーリヒ・プリーブケ 

―――イタリア、ローマ~1944年3月23日

ロサリオ・ベンティヴェグナ率いるイタリア共産党パルチザン(Partito d'Azione)が仕掛けたその爆弾は、ローマのヴィア・ラセッラへ向けて移動中だったSS(Schutzstaffel=親衛隊)警察部隊の隊列の中で炸裂し、兵士たちを吹き飛ばした。結果、33人のドイツ兵が死亡した。

その報を受け激怒した総統アドルフ・ヒトラーは、次のような命令を下した。

「死んだドイツ人1人に対し、10人のイタリア人の命で贖え。24時間以内に実行せよ」


総統閣下直々の報復処刑の命を受け、ローマのゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei=秘密国家警察)の長であるヘルベルト・カプラーSS中佐は、直ちに330人の処刑リストを作成するよう部下のエーリヒ・プリーブケSS大尉に指示し、ローマ警察本部長ピエトロ・カルーソにも囚人の移送などの協力を要請した。
翌日の正午、プリーブケ大尉とSD(Sicherheitsdienst=保安防諜局)のカール・ハスSS大尉の指揮の下、15歳から74歳までの男たちがトラックの荷台に載せられ、ローマ郊外にある採石場、アルデアティーネ洞窟の前に運ばれた。彼らはトロツキー派の共産党員やユダヤ人、あるいはカトリック教徒であることを理由にゲシュタポに逮捕され、拘束されていた者たちだった。
犠牲者たちは後ろ手に縛られると、5人1組のグループで順番に洞窟内へと連れて行かれ、石切り場で背後から首筋を撃たれて処刑された。時間が経つにつれ洞窟内の死体は増えていき、新たに犠牲となる者は、前の犠牲者の体に乗ってひざまずく形で次々と射殺されていった。
処刑者たちは途中で、連れて来た人間がリストより5人多いことに気が付いた。しかし既に来てしまった以上はということで、結局その5人もこれまで同様に処刑するのだった。殺戮は夜まで続き、最終的に335人のローマ市民が、洞窟の暗がりに累々たる屍として横たわった。
殺戮の後、処刑者たちは死体の山をぞんざいに埋め、洞窟の入り口を爆破して塞ぎ、そこを立ち去った。

後に「アルデアティーネの大虐殺(Eccidio delle Fosse Ardeatine)」として呼ばれるこの事件は、イタリア国内で第二次大戦中に起きた事件の中で最も凄惨なものとして、イタリア人たちの記憶に刻まれることとなった。

それから50年余。

1994年、アメリカABC-TVの夜のニュース番組「Primetime Live」は、同局の記者サム・ドナルドソンがアルゼンチンのサンカルロス・デ・バリロチェで行った、とある老人とのインタビューを報じた。インタビューで老人は、50年前にイタリアはローマで起きた「アルデアティーネの大虐殺」について語っていた。

「処刑リストを作成し、実行したのは確かに私だ」
「しかし私はカプラー中佐の命令に従っただけに過ぎない」
「処刑された者は皆テロリスト(パルチザン)だったのだ」


priebke-old.jpg当年81歳になるその老人はプロイセンの血を引くドイツ人であり、名をエーリヒ・プリーブケといった。

そう、「アルデアティーネの大虐殺」の処刑者のひとり、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉その人である。

1913年7月29日、首都ベルリンから程遠くないヘーニヒスドルフで生まれたエーリヒ・プリーブケは、7歳で両親を失い、以降は叔母の元で育てられた。14歳にしてホテルでの仕事を生業とした彼は20歳の時にイタリアに渡り、やがてリグーリア海岸のホテルで職を得るのだった。
ss-priebke.jpg1935年、ロンドンでのホテル勤務を最後に故国ドイツに戻ったプリーブケは、22歳でホテルマンとしてのキャリアに終止符を打ち、翌年からはイタリア語の通訳担当としてゲシュタポに勤務することになる。すぐに刑事局へ異動となった彼はそこで軍事的な修練も積み、本格的なSS隊員、ゲシュタポ要員として筋金街道を歩んで逝く。やがてSS中尉となったプリーブケは、今度はホテルマンではなく秘密警察マンとして再びイタリアに渡り、1941年2月以降、イタリアのファシスト党をはじめ、当地の各警察組織との連絡調整を主たる任務として従事した。
1943年9月以降はカプラーSS中佐の指揮の下、ローマ郊外のヴィア・タッソで恐怖の各種警察活動に従事し、その半年後にこのアルデアティーネ洞窟での殺戮に関与することになる。終戦を迎えた時、彼はブレッシャにいた。最後の階級はSS大尉であった。
priebke-pass.jpgプリーブケは戦後イギリス軍にその身柄を拘束されたものの、1946年にイタリア北東のビピテーノのイギリス軍捕虜収容所からどうにか脱走し、その2年後にODESSA(Organaisation Der Ehemaligen SS-Angehorigen=元SS隊員組織)の支援の下、妻子と共にアルゼンチンはブエノスアイレスの地へと逃れた。一説によれば(アルゼンチンのジャーナリストによる)、プリーブケの逃亡にはバチカン・カトリック教会のアロイス・フーダル司教が関与しているともいう。ODESSAルートよりはるかに安全・確実、かの「バチカン・ルート」である。

いずれにせよ、新天地アルゼンチンに逃れて以降、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉の身は安泰であった。彼の元に追及の手は伸びなかった。イタリアからもドイツからもイスラエルからも訪問者はやって来なかった。彼の過去を探り、糾弾する者は誰もいなかった。
こうして長らく謳歌できた平穏無事な生活が、プリーブケにドナルドソン、ABCニュースのインタビューに応じる気にさせたのだろうか。あの殺戮から半世紀が経過しようとしていた。事件が既に風化しているという安心感でもあったのか。もう喋っても大丈夫と思ったのかも知れない。インタビューは所詮インタビューで終わるものと。
しかしこの元SS大尉、1949年以来住んでいるこのスキー場の麓の観光地で、畏怖堂々と己が本名を冠した肉屋を営んでいたタフガイである。要するに、エーリヒ・プリーブケという男は図々しいのだろう。自分は何も間違ってないという断固たる信念の下にこれまでを生きてきた彼としては、そのインタビューがまさか己が身に災いをもたらそうなどとは露とも思わなかったのではないだろうか。

ところがプリーブケ老人の図々しさや楽観とは裏腹に、番組の反響は大きかった。インタビューは極東のローカルTVで放送されたのではない。ABC-TVはアメリカ三大ネットワークのひとつである。しかも看板のニュース番組での放送である。それがただの一老人の回想録で終わるわけがなかった。さらに時のアルゼンチン大統領ネストル・キルヒナーは、過去にアルゼンチンがユダヤ人問題最終解決責任者アドルフ・アイヒマン、アウシュヴィッツの“死の天使”ヨーゼフ・メンゲレといったナチの戦争犯罪者を受け容れてきた負の記憶と決別すべく、そこを安息の地として逃れてきたナチ戦犯についての情報公開を命じていた時期でもあった。
アメリカでの報道とその反響に、アルゼンチン政府は敏感に反応した。プリーブケが本名で店を構えていたこともあり、潜伏?場所はすぐに割れた。当局は直ちにサンカルロス・デ・バリロチェへと赴き、件の老人を逮捕した。かくしてエーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、およそ半世紀に及んだ逃亡生活を、自ら首を絞めた形で終止符を打つこととなったのである。ただしその身柄は老齢と病弱を理由に、当座は自宅軟禁の形で留め置かれることとなった。

当初、プリーブケのイタリア送還は確実であろうと思われたが、彼の弁護士は、イタリアからのすべての文書をスペイン語に翻訳せよという要求を戦術として用い、審理の引き伸ばし(身柄引き渡しの期限切れ)を図るのだった。アルゼンチンの裁判所は最終的にその要求は却下したものの、申請と審理の繰り返しで1年以上を費やしていた。
弁護士は翻訳作戦が失敗すると見るや、今度は「殺人事件としては既に時効(15年以上経過)である」という主張に切り替えた。しかし「人道に反する罪」については時効が適用されないため、連邦判事はプリーブケのイタリアへの送還を決定する。ところが、それまでの引き伸ばし作戦が功を奏し、司法の判断は身柄送還期限が過ぎているとのことで、イタリアへの引き渡しを認めない決定を下したのだった。
この決定に対し、イタリアに加え、ドイツもプリーブケの身柄引き渡し要求することでアルゼンチン政府に圧力を掛けた。
逮捕から1年半後、アルゼンチン最高裁判所はようやくプリーブケのイタリアへの身柄引き渡しを決定するのだった。

priebke-rome.jpgプリーブケは長年住み慣れたサンカルロス・デ・バリロチェの自宅から連れ出され、イタリアのローマはチャンピーノ空港行きの直行便に乗せられた。

エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、今度は己が裁かれる身として、半世紀ぶりにローマの地に降り立つことになったのである。

イタリア軍事裁判所の法廷で、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、「自分は無罪である」という主張をひたすら繰り返した。

priebke-10.jpgプリーブケはローマ市民の処刑の事実に対しての否定はしなかったが、その“責任”についてはことごとくを否定した。
処刑の原因は33人のドイツ兵がイタリアのパルチザンによって殺害されたためであり、処刑命令は自分の上司であるヘルベルト・カプラーSS中佐、ひいては総統アドルフ・ヒトラーによるものであり、そして処刑自体は正当な処罰である、と。

そんな主張がまかり通ってしまうのが法の解釈であったりする。イタリア軍事裁判所での1996年8月の初審は、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉に対し、「無罪」の判決を下すのだった。裁判所前に集っていたイタリア人たちは荒れに荒れまくったという。

当然ながら検察は上告し、1997年4月、再審がはじまった。

審理の過程で、「アルデアティーネの大虐殺」でのプリーブケの具体的な行動がさらに明らかになった。

ヘルベルト・カプラーSS中佐は、処刑されたのが確実にわかるように、リストの名をチェックしてから処刑するようエーリヒ・プリーブケSS大尉に命じた。
プリーブケ大尉は処刑リストに載った名前をひとりづつ読み上げてから、犠牲となる者を洞窟内へと送り込んだ。リストにない者がそこにいることがわかったのも、そのためだった。
また、彼は2番目か3番目のグループと共に洞窟に入り、イタリア製の短機関銃で男性1人を射殺した。そして処刑の終わりの頃、再び彼は洞窟に入り、別の男性を射殺した。


これで少なくともプリーブケが2名の射殺を直接行ったことが確実になった。
さらに、「アルデアティーネの大虐殺」以外の嫌疑も濃厚になった。その前年にカプラーが主導した、10,000人余のイタリア系ユダヤ人のアウシュヴィッツ強制収容所への移送計画のうち、6,000~7,000人のユダヤ人の移送について関与したこと、ゲシュタポに逮捕された囚人への拷問・暴行が疑われたのである。ただ、これらについては確たる物証はなく、嫌疑のみに留まった。
結局、アルデアティーネの一件は軍事作戦ではなく犯罪行為であり、プリーブケにはその執行者としての責任があり、またそこでの2件の直接的な殺人についての時効はないとの判断により、軍事裁判所はエーリヒ・プリーブケ元SS大尉に対し、有罪判決を下した。検察側の終身刑の求刑に対し、言い渡されたのは「15年の刑」であった。

Priebke-jail.jpgこうして「アルデアティーネ洞窟の大虐殺」の処刑人は、53年の時を経てようやく断罪され、獄中の人となるのだった。

エーリヒ・プリーブケ、84歳の時である。

2年後の1999年2月、プリーブケは恩赦により、その拘禁生活を自宅軟禁に切り替えられた。
しかし“反省しない老人”はそれでもまるで納得しなかった。元SS大尉は判決を不服とし、ストラスブールで欧州人権裁判所に上告したのである。
プリーブケは「責任」が己にあることをどうしても認めることができなかった。自分は激しい憎しみの犠牲者であり、第二次大戦中に行われたすべての残虐行為について自分が非難されていると、繰り返し主張したのである。
老人は己が信念を決して曲げていない。どこまでも頑なである。あるいはその頑なさは、彼の図々しさがなせる業なのかも知れない。
「アルデアティーネの大虐殺」の“責任者”、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は語る。

「私は私の人生の50年をアルゼンチンに捧げたが、彼らは私を見捨てた」
「私は戦争の間、ドイツを守るために戦った。今度は彼らが私を守るべきだ」
「私は法から公正に投獄されたのではなく、世界のユダヤ主義のために投獄されたのだ」


2007年3月3日現在、93歳のヨーロッパで最も高齢の囚人は、己が無罪を信じ続け、今日もまだ生きている。


さて、「アルデアティーネの大虐殺」に関わったほかの処刑者たちはどのような命運を辿ったのか。

Herbert_Kappler.jpgヒトラーの命を受け、報復処刑の段取りをまとめたヘルベルト・カプラーSS中佐の罪はこの一件に留まらなかった。シュツットガルト出身のこのローマ・ゲシュタポの長は、10,000人余のイタリア・ユダヤ人の摘発・逮捕を計画し、実行していた。後に「黒い土曜日」と呼ばれる、1943年10月16日から18日までの3日間だけでも2,300人余のユダヤ人を逮捕し、アウシュヴィッツ強制収容所へと送り込んだのである。そこから生きて故郷に帰れた者は10人にも満たないという。
戦後、カプラーはイギリス軍によって捕らえられ、その後身柄はイタリア当局に引き渡された。
1947年、イタリアの軍事裁判所はヘルベルト・カプラー元SS中佐に対し、終身刑の判決を下した。
kapler-old.jpg以来カプラーは30年間に渡り獄中生活を送っていたが、1977年に病気療養のため、ローマの陸軍病院へと移された。そこでなんとカプラーは妻の手引きにより病院から脱走し、故国ドイツへ逃亡することに成功したのだった。しかし、入院の原因となった癌により、半年後に自宅で死亡。享年70歳だった。

caluso.jpgファシスト警察の長として、ナチの警察機関と密接な関係を続けてきた、ローマ警察本部長ピエトロ・カルーソ。
カプラーの要請には常に応え、囚人の手配・移送などを熱心に行ってきた彼は、第二次大戦の終結を待たずして、怒れる同胞のイタリア人たちの手によって捕らえられた。
excution-caluso.jpgそして1944年9月、ファシスト及びナチの犯罪行為に積極的に加担した罪により死刑判決を受け、銃殺刑に処された。 その処刑の模様は大仰なBGMとナレーションと共に、ニュース映像として記録された。

hass-1.jpgプリーブケと同じく、「アルデアティーネの大虐殺」の直接の執行者であった、カール・ハスSS大尉。
キールの生まれでプリーブケより1歳年上のハスは、1934年以来の根っからのSD要員であった。
連合軍の侵攻に備えて、破壊活動のネットワークを構築すべくローマに送られたハスは、カプラーの指揮の下、当地ユダヤ人のアウシュヴィッツ送りのほかに、イタリアの王族エマニュエル3世の娘、マファリダの誘拐にも直接関与した。マファリダはその後、ブッヒェンヴァルト強制収容所で処刑されている。
ハスは情報官としての素質は高かったのだろう。戦後彼を捕らえたアメリカ軍は、彼の利用価値を認め、戦争犯罪を不問として法廷の場には出さずに、CIAの対ソ諜報活動に従事させた。
“スパイ生活”の引退以降、ハスはスイスのアルプスの麓で悠々自適の生活を送っていた。しかしプリーブケ裁判に伴い、カール・ハス元SS大尉もまた法廷の場に引きずり出されたのである。
hass-fall.jpgハスは司法取引によって罪が免責されるはずであったが、こともあろうに証言の前日、彼はホテルの2階から脱走を図った。老体に鞭打ってバルコニー伝いに逃げ出したはいいが、途中滑って転落し重傷を負ったのである。
この逃亡未遂でハスは訴追免責を失い、プリーブケと同じく裁きの身となった。
「アルデアティーネの大虐殺」についてハスは、プリーブケと同じく自ら2人の市民を射殺したことは認めたが、処刑に関しては一貫して「命令に従ったまで」と主張した。しかし、裁判の過程でハスの罪はアルデアティーネの一件に留まらず、その他の罪状が露見し、証明されたことにより1998年、終身刑の判決が下された。しかし、終身刑はその後の恩赦により10年に減刑された。さらに、ハスの老齢と病弱によって収監は行われず、牢獄の代わりに自宅軟禁に留め置かれるのだった。
カール・ハス元SS大尉は長年住み慣れたアルプスの麓の自宅で、ジュネーブに住む娘の定期的な訪問を受けながら、最後の数年を過ごした。
そして2004年4月、92歳で生涯を閉じた。


悲劇の舞台となったアルデアティーネの洞窟は、過去の忘れざる記憶として、今も残されているという。

さて、本格始動と逝こうか。 

ただし当座は継投作戦にて。

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