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改訂版・世界駄目駄目紳士録:頑固なる戦争犯罪者~エーリヒ・プリーブケ 

―――イタリア、ローマ~1944年3月23日

ロサリオ・ベンティヴェグナ率いるイタリア共産党パルチザン(Partito d'Azione)が仕掛けたその爆弾は、ローマのヴィア・ラセッラへ向けて移動中だったSS(Schutzstaffel=親衛隊)警察部隊の隊列の中で炸裂し、兵士たちを吹き飛ばした。結果、33人のドイツ兵が死亡した。

その報を受け激怒した総統アドルフ・ヒトラーは、次のような命令を下した。

「死んだドイツ人1人に対し、10人のイタリア人の命で贖え。24時間以内に実行せよ」


総統閣下直々の報復処刑の命を受け、ローマのゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei=秘密国家警察)の長であるヘルベルト・カプラーSS中佐は、直ちに330人の処刑リストを作成するよう部下のエーリヒ・プリーブケSS大尉に指示し、ローマ警察本部長ピエトロ・カルーソにも囚人の移送などの協力を要請した。
翌日の正午、プリーブケ大尉とSD(Sicherheitsdienst=保安防諜局)のカール・ハスSS大尉の指揮の下、15歳から74歳までの男たちがトラックの荷台に載せられ、ローマ郊外にある採石場、アルデアティーネ洞窟の前に運ばれた。彼らはトロツキー派の共産党員やユダヤ人、あるいはカトリック教徒であることを理由にゲシュタポに逮捕され、拘束されていた者たちだった。
犠牲者たちは後ろ手に縛られると、5人1組のグループで順番に洞窟内へと連れて行かれ、石切り場で背後から首筋を撃たれて処刑された。時間が経つにつれ洞窟内の死体は増えていき、新たに犠牲となる者は、前の犠牲者の体に乗ってひざまずく形で次々と射殺されていった。
処刑者たちは途中で、連れて来た人間がリストより5人多いことに気が付いた。しかし既に来てしまった以上はということで、結局その5人もこれまで同様に処刑するのだった。殺戮は夜まで続き、最終的に335人のローマ市民が、洞窟の暗がりに累々たる屍として横たわった。
殺戮の後、処刑者たちは死体の山をぞんざいに埋め、洞窟の入り口を爆破して塞ぎ、そこを立ち去った。

後に「アルデアティーネの大虐殺(Eccidio delle Fosse Ardeatine)」として呼ばれるこの事件は、イタリア国内で第二次大戦中に起きた事件の中で最も凄惨なものとして、イタリア人たちの記憶に刻まれることとなった。

それから50年余。

1994年、アメリカABC-TVの夜のニュース番組「Primetime Live」は、同局の記者サム・ドナルドソンがアルゼンチンのサンカルロス・デ・バリロチェで行った、とある老人とのインタビューを報じた。インタビューで老人は、50年前にイタリアはローマで起きた「アルデアティーネの大虐殺」について語っていた。

「処刑リストを作成し、実行したのは確かに私だ」
「しかし私はカプラー中佐の命令に従っただけに過ぎない」
「処刑された者は皆テロリスト(パルチザン)だったのだ」


priebke-old.jpg当年81歳になるその老人はプロイセンの血を引くドイツ人であり、名をエーリヒ・プリーブケといった。

そう、「アルデアティーネの大虐殺」の処刑者のひとり、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉その人である。

1913年7月29日、首都ベルリンから程遠くないヘーニヒスドルフで生まれたエーリヒ・プリーブケは、7歳で両親を失い、以降は叔母の元で育てられた。14歳にしてホテルでの仕事を生業とした彼は20歳の時にイタリアに渡り、やがてリグーリア海岸のホテルで職を得るのだった。
ss-priebke.jpg1935年、ロンドンでのホテル勤務を最後に故国ドイツに戻ったプリーブケは、22歳でホテルマンとしてのキャリアに終止符を打ち、翌年からはイタリア語の通訳担当としてゲシュタポに勤務することになる。すぐに刑事局へ異動となった彼はそこで軍事的な修練も積み、本格的なSS隊員、ゲシュタポ要員として筋金街道を歩んで逝く。やがてSS中尉となったプリーブケは、今度はホテルマンではなく秘密警察マンとして再びイタリアに渡り、1941年2月以降、イタリアのファシスト党をはじめ、当地の各警察組織との連絡調整を主たる任務として従事した。
1943年9月以降はカプラーSS中佐の指揮の下、ローマ郊外のヴィア・タッソで恐怖の各種警察活動に従事し、その半年後にこのアルデアティーネ洞窟での殺戮に関与することになる。終戦を迎えた時、彼はブレッシャにいた。最後の階級はSS大尉であった。
priebke-pass.jpgプリーブケは戦後イギリス軍にその身柄を拘束されたものの、1946年にイタリア北東のビピテーノのイギリス軍捕虜収容所からどうにか脱走し、その2年後にODESSA(Organaisation Der Ehemaligen SS-Angehorigen=元SS隊員組織)の支援の下、妻子と共にアルゼンチンはブエノスアイレスの地へと逃れた。一説によれば(アルゼンチンのジャーナリストによる)、プリーブケの逃亡にはバチカン・カトリック教会のアロイス・フーダル司教が関与しているともいう。ODESSAルートよりはるかに安全・確実、かの「バチカン・ルート」である。

いずれにせよ、新天地アルゼンチンに逃れて以降、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉の身は安泰であった。彼の元に追及の手は伸びなかった。イタリアからもドイツからもイスラエルからも訪問者はやって来なかった。彼の過去を探り、糾弾する者は誰もいなかった。
こうして長らく謳歌できた平穏無事な生活が、プリーブケにドナルドソン、ABCニュースのインタビューに応じる気にさせたのだろうか。あの殺戮から半世紀が経過しようとしていた。事件が既に風化しているという安心感でもあったのか。もう喋っても大丈夫と思ったのかも知れない。インタビューは所詮インタビューで終わるものと。
しかしこの元SS大尉、1949年以来住んでいるこのスキー場の麓の観光地で、畏怖堂々と己が本名を冠した肉屋を営んでいたタフガイである。要するに、エーリヒ・プリーブケという男は図々しいのだろう。自分は何も間違ってないという断固たる信念の下にこれまでを生きてきた彼としては、そのインタビューがまさか己が身に災いをもたらそうなどとは露とも思わなかったのではないだろうか。

ところがプリーブケ老人の図々しさや楽観とは裏腹に、番組の反響は大きかった。インタビューは極東のローカルTVで放送されたのではない。ABC-TVはアメリカ三大ネットワークのひとつである。しかも看板のニュース番組での放送である。それがただの一老人の回想録で終わるわけがなかった。さらに時のアルゼンチン大統領ネストル・キルヒナーは、過去にアルゼンチンがユダヤ人問題最終解決責任者アドルフ・アイヒマン、アウシュヴィッツの“死の天使”ヨーゼフ・メンゲレといったナチの戦争犯罪者を受け容れてきた負の記憶と決別すべく、そこを安息の地として逃れてきたナチ戦犯についての情報公開を命じていた時期でもあった。
アメリカでの報道とその反響に、アルゼンチン政府は敏感に反応した。プリーブケが本名で店を構えていたこともあり、潜伏?場所はすぐに割れた。当局は直ちにサンカルロス・デ・バリロチェへと赴き、件の老人を逮捕した。かくしてエーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、およそ半世紀に及んだ逃亡生活を、自ら首を絞めた形で終止符を打つこととなったのである。ただしその身柄は老齢と病弱を理由に、当座は自宅軟禁の形で留め置かれることとなった。

当初、プリーブケのイタリア送還は確実であろうと思われたが、彼の弁護士は、イタリアからのすべての文書をスペイン語に翻訳せよという要求を戦術として用い、審理の引き伸ばし(身柄引き渡しの期限切れ)を図るのだった。アルゼンチンの裁判所は最終的にその要求は却下したものの、申請と審理の繰り返しで1年以上を費やしていた。
弁護士は翻訳作戦が失敗すると見るや、今度は「殺人事件としては既に時効(15年以上経過)である」という主張に切り替えた。しかし「人道に反する罪」については時効が適用されないため、連邦判事はプリーブケのイタリアへの送還を決定する。ところが、それまでの引き伸ばし作戦が功を奏し、司法の判断は身柄送還期限が過ぎているとのことで、イタリアへの引き渡しを認めない決定を下したのだった。
この決定に対し、イタリアに加え、ドイツもプリーブケの身柄引き渡し要求することでアルゼンチン政府に圧力を掛けた。
逮捕から1年半後、アルゼンチン最高裁判所はようやくプリーブケのイタリアへの身柄引き渡しを決定するのだった。

priebke-rome.jpgプリーブケは長年住み慣れたサンカルロス・デ・バリロチェの自宅から連れ出され、イタリアのローマはチャンピーノ空港行きの直行便に乗せられた。

エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、今度は己が裁かれる身として、半世紀ぶりにローマの地に降り立つことになったのである。

イタリア軍事裁判所の法廷で、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、「自分は無罪である」という主張をひたすら繰り返した。

priebke-10.jpgプリーブケはローマ市民の処刑の事実に対しての否定はしなかったが、その“責任”についてはことごとくを否定した。
処刑の原因は33人のドイツ兵がイタリアのパルチザンによって殺害されたためであり、処刑命令は自分の上司であるヘルベルト・カプラーSS中佐、ひいては総統アドルフ・ヒトラーによるものであり、そして処刑自体は正当な処罰である、と。

そんな主張がまかり通ってしまうのが法の解釈であったりする。イタリア軍事裁判所での1996年8月の初審は、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉に対し、「無罪」の判決を下すのだった。裁判所前に集っていたイタリア人たちは荒れに荒れまくったという。

当然ながら検察は上告し、1997年4月、再審がはじまった。

審理の過程で、「アルデアティーネの大虐殺」でのプリーブケの具体的な行動がさらに明らかになった。

ヘルベルト・カプラーSS中佐は、処刑されたのが確実にわかるように、リストの名をチェックしてから処刑するようエーリヒ・プリーブケSS大尉に命じた。
プリーブケ大尉は処刑リストに載った名前をひとりづつ読み上げてから、犠牲となる者を洞窟内へと送り込んだ。リストにない者がそこにいることがわかったのも、そのためだった。
また、彼は2番目か3番目のグループと共に洞窟に入り、イタリア製の短機関銃で男性1人を射殺した。そして処刑の終わりの頃、再び彼は洞窟に入り、別の男性を射殺した。


これで少なくともプリーブケが2名の射殺を直接行ったことが確実になった。
さらに、「アルデアティーネの大虐殺」以外の嫌疑も濃厚になった。その前年にカプラーが主導した、10,000人余のイタリア系ユダヤ人のアウシュヴィッツ強制収容所への移送計画のうち、6,000~7,000人のユダヤ人の移送について関与したこと、ゲシュタポに逮捕された囚人への拷問・暴行が疑われたのである。ただ、これらについては確たる物証はなく、嫌疑のみに留まった。
結局、アルデアティーネの一件は軍事作戦ではなく犯罪行為であり、プリーブケにはその執行者としての責任があり、またそこでの2件の直接的な殺人についての時効はないとの判断により、軍事裁判所はエーリヒ・プリーブケ元SS大尉に対し、有罪判決を下した。検察側の終身刑の求刑に対し、言い渡されたのは「15年の刑」であった。

Priebke-jail.jpgこうして「アルデアティーネ洞窟の大虐殺」の処刑人は、53年の時を経てようやく断罪され、獄中の人となるのだった。

エーリヒ・プリーブケ、84歳の時である。

2年後の1999年2月、プリーブケは恩赦により、その拘禁生活を自宅軟禁に切り替えられた。
しかし“反省しない老人”はそれでもまるで納得しなかった。元SS大尉は判決を不服とし、ストラスブールで欧州人権裁判所に上告したのである。
プリーブケは「責任」が己にあることをどうしても認めることができなかった。自分は激しい憎しみの犠牲者であり、第二次大戦中に行われたすべての残虐行為について自分が非難されていると、繰り返し主張したのである。
老人は己が信念を決して曲げていない。どこまでも頑なである。あるいはその頑なさは、彼の図々しさがなせる業なのかも知れない。
「アルデアティーネの大虐殺」の“責任者”、エーリヒ・プリーブケ元SS大尉は語る。

「私は私の人生の50年をアルゼンチンに捧げたが、彼らは私を見捨てた」
「私は戦争の間、ドイツを守るために戦った。今度は彼らが私を守るべきだ」
「私は法から公正に投獄されたのではなく、世界のユダヤ主義のために投獄されたのだ」


2007年3月3日現在、93歳のヨーロッパで最も高齢の囚人は、己が無罪を信じ続け、今日もまだ生きている。


さて、「アルデアティーネの大虐殺」に関わったほかの処刑者たちはどのような命運を辿ったのか。

Herbert_Kappler.jpgヒトラーの命を受け、報復処刑の段取りをまとめたヘルベルト・カプラーSS中佐の罪はこの一件に留まらなかった。シュツットガルト出身のこのローマ・ゲシュタポの長は、10,000人余のイタリア・ユダヤ人の摘発・逮捕を計画し、実行していた。後に「黒い土曜日」と呼ばれる、1943年10月16日から18日までの3日間だけでも2,300人余のユダヤ人を逮捕し、アウシュヴィッツ強制収容所へと送り込んだのである。そこから生きて故郷に帰れた者は10人にも満たないという。
戦後、カプラーはイギリス軍によって捕らえられ、その後身柄はイタリア当局に引き渡された。
1947年、イタリアの軍事裁判所はヘルベルト・カプラー元SS中佐に対し、終身刑の判決を下した。
kapler-old.jpg以来カプラーは30年間に渡り獄中生活を送っていたが、1977年に病気療養のため、ローマの陸軍病院へと移された。そこでなんとカプラーは妻の手引きにより病院から脱走し、故国ドイツへ逃亡することに成功したのだった。しかし、入院の原因となった癌により、半年後に自宅で死亡。享年70歳だった。

caluso.jpgファシスト警察の長として、ナチの警察機関と密接な関係を続けてきた、ローマ警察本部長ピエトロ・カルーソ。
カプラーの要請には常に応え、囚人の手配・移送などを熱心に行ってきた彼は、第二次大戦の終結を待たずして、怒れる同胞のイタリア人たちの手によって捕らえられた。
excution-caluso.jpgそして1944年9月、ファシスト及びナチの犯罪行為に積極的に加担した罪により死刑判決を受け、銃殺刑に処された。 その処刑の模様は大仰なBGMとナレーションと共に、ニュース映像として記録された。

hass-1.jpgプリーブケと同じく、「アルデアティーネの大虐殺」の直接の執行者であった、カール・ハスSS大尉。
キールの生まれでプリーブケより1歳年上のハスは、1934年以来の根っからのSD要員であった。
連合軍の侵攻に備えて、破壊活動のネットワークを構築すべくローマに送られたハスは、カプラーの指揮の下、当地ユダヤ人のアウシュヴィッツ送りのほかに、イタリアの王族エマニュエル3世の娘、マファリダの誘拐にも直接関与した。マファリダはその後、ブッヒェンヴァルト強制収容所で処刑されている。
ハスは情報官としての素質は高かったのだろう。戦後彼を捕らえたアメリカ軍は、彼の利用価値を認め、戦争犯罪を不問として法廷の場には出さずに、CIAの対ソ諜報活動に従事させた。
“スパイ生活”の引退以降、ハスはスイスのアルプスの麓で悠々自適の生活を送っていた。しかしプリーブケ裁判に伴い、カール・ハス元SS大尉もまた法廷の場に引きずり出されたのである。
hass-fall.jpgハスは司法取引によって罪が免責されるはずであったが、こともあろうに証言の前日、彼はホテルの2階から脱走を図った。老体に鞭打ってバルコニー伝いに逃げ出したはいいが、途中滑って転落し重傷を負ったのである。
この逃亡未遂でハスは訴追免責を失い、プリーブケと同じく裁きの身となった。
「アルデアティーネの大虐殺」についてハスは、プリーブケと同じく自ら2人の市民を射殺したことは認めたが、処刑に関しては一貫して「命令に従ったまで」と主張した。しかし、裁判の過程でハスの罪はアルデアティーネの一件に留まらず、その他の罪状が露見し、証明されたことにより1998年、終身刑の判決が下された。しかし、終身刑はその後の恩赦により10年に減刑された。さらに、ハスの老齢と病弱によって収監は行われず、牢獄の代わりに自宅軟禁に留め置かれるのだった。
カール・ハス元SS大尉は長年住み慣れたアルプスの麓の自宅で、ジュネーブに住む娘の定期的な訪問を受けながら、最後の数年を過ごした。
そして2004年4月、92歳で生涯を閉じた。


悲劇の舞台となったアルデアティーネの洞窟は、過去の忘れざる記憶として、今も残されているという。
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コメント

335人が本当に民間人ならこれは赦されざる虐殺行為だが、パルチザン狩りと聞けば逆に正当性のある軍事行為の一環になる。
第一にテロ行為(ここでは軍服を着用せず、戦闘行為を行う際に敵とわかるように識別できる腕章等の着用も行わず、平服の民間人に扮して軍隊に攻撃をしかける行為)そのものが、最も忌むべき行為であり、この様な民間人を巻き込む悲劇を起こす原因である。真に裁かれるべき者は、こういったも卑劣な行為したテロリストであるパルチザンである。当時の国際法上、こういったテロ行為を行った卑怯で卑劣な連中は、捕まって即処刑は合法の行為となっていた。
SSのパルチザン狩りの手法は、アメリカ軍もベトナム戦争でベトコンを狩るために使っているし、一概に彼らを戦犯と一方的に罵ることは最も愚かしい行為だ。
公平に真実を追求してもらえる世界にかわってもらいたいものだ。

  • [2013/10/20 10:59]
  • URL |
  • 名無しさん@オレだよ
  • [ 編集 ]
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イ、イ、イタリア人って、う、う、うめえのか?

イタリア人とかイタリア人とかイタリア人とかイタリア人とか(*´з`)

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