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改訂版・世界駄目駄目紳士録:スパイマスターは逃亡者~アロイス・ブルナー 

中東の 不穏の陰に シリアあり

とまでは大げさなのかも知れないが、それでも中東、特にイスラエル周辺で湧き起こる数々のキナ臭い事件の影には、シリア・アラブ共和国と、同国の諜報機関の暗躍がチラチラ見え隠れしてやまない。イランとの秘めたる共闘、エルサレムで頻発する自爆テロの黒幕、ベイルートでの要人暗殺、兵を退いてなお残す諜報の網…。
そんな香ばしきシリアの諜報機関、イダラート・アル-アムン・アル-アンム(総合保安庁)の存在感はここ数年他の追随を許さない勢いであるが、それはバッシャール・アサド大統領の下で急成長を遂げたわけではない。成り行き的に国家元首になってしまった穏健な現シリア大統領には、国政に係る権限は小さく、かつその影響力は乏しい。近年のその突出は、先代のハフェズ・アサド政権時代からの周辺人物たちによる神の見えざる屁と踏んだ方が正しいだろう。
そんな素敵なシリア諜報機関の今日の発展と香ばしさの礎は、先代のパパ・アサドの時代にしっかりと築かれたものである。そしてその開花に至るまでの成長の影には、とある追われる身のオーストリア人の多大なる貢献と寄与があったのである。

そのオーストリア人の名は、アロイス・ブルナーといった。


brunner1.jpgアロイス・ブルナー。元ナチSS(Schutzstaffel=親衛隊)の大尉であり、「最後の大物ナチ」と呼ばれる人物である。
かのユダヤ人問題最終解決責任者、アドルフ・アイヒマンSS中佐の“右腕”として知られ、第二次大戦中、ブルナーの手によって128,500人余のユダヤ人(含系)が死に追いやられたとされている。
当然ながら戦争犯罪者としてフランス、西ドイツ、ポーランド、ギリシャの4ヶ国から指名手配され、欠席裁判で計4回もの有罪判決を受けているものの、その身柄は一度として拘束されたことはない。というか、今となってはその生死すらもはっきりしていないのである。
著名なる“ナチ・ハンター”、シモン・ヴィーゼンタールが生涯追い続けて結局果たせず、イスラエル諜報機関「モサド」も仕損じたこのオーストリア人、もしまだ存命であるなら、今年で95歳になる。
ブルナーは第二次大戦終結後、オーストリアや西ドイツで暮らしていたが、追及の手が迫った1950年代半ば、ヨーロッパ大陸から逃亡した。以降、公式上の確たる足取りとしてはそこで途絶え、形としては現在に至るまで「行方不明」のままとなっている。
しかし、ひとつ明確なことがある。この戦争犯罪者を匿い、自国の諜報機関の父として奉り上げた国があるのだ。

それが、シリア・アラブ共和国である。


アロイス・ブルナーは1912年4月8日、オーストリアのローブリュンにて農家の息子として生まれた。1927年に学業を終えた彼は、しばらくは室内装飾業者やデパートの販売員として働いていた。
1931年、ブルナーは19歳の時にオーストリア・ナチ党に入党し、SA(Sturmabteilung=突撃隊)隊員となった。街頭で吼えたり酒場で「ホルスト・ヴェッセル」を歌ったりユダヤ人商店のガラスを叩き割ったりといったSAのクラブ活動が忙しくなり、結果彼はデパートの仕事を辞め、ナチ党一本の生活へとシフトする。
brunner2.jpg「アンシュルス」と呼ばれる1938年のドイツによるオーストリア併合の後、26歳のブルナーはウィーンに赴き、SSに入隊。そして彼の運命を決めることとなる、SD(Sicherheistdienst=保安防諜局)での勤務がはじまるのである。
第二次大戦が勃発した1939年、ブルナーは「移民」とは名ばかりの、ドイツやオーストリアのユダヤ人放逐のために作られた「ユダヤ人移民中央局」 に配属となり、その建立者であるアドルフ・アイヒマンの下で働くことになった。
同年10月、ブルナーの手により、ウィーンやモラビアに住んでいたユダヤ人912人の最初の移送が行われる。その逝き先はポーランドはルブリンの一画、ニスコのゲットー(ユダヤ人居住区)だった。この最初の“仕事”についてブルナーは、「移送はつつがなく遂行された」と報告書に記している。
brunner4.jpgブルナーSS少尉は「職務に忠実かつ熱心な男」として、常に要求されるよりも多くのことを達成していた。そんなブルナーをアイヒマンは「部下の中で最も優秀な男」と評したという。
1940年、ブルナーは秘書だったアニ・ローダーと結婚。同年、SS中尉への昇進も果たすと同時に、アイヒマンの後釜として「ユダヤ人移民中央局」の局長となった。以降、ブルナーはユダヤ人の東方への移送を徹底的に組織化し、SS内でも才能ある成功した男として高く評価されるようになる。
ちなみにここで言う「移送」とは、良くてゲットー(ユダヤ人居住区)、悪くて強制収容所、最悪で絶滅収容所へ送られることを意味する。要するに単なる追放ではなく、死地への片道切符である。そこへ送られた者の多くは即座に殺されるか、緩慢に死んでいくかの運命が待ち受けていた。そこでは生きることの方がはるかに困難なことであった。生き延びるためには大いなる奇跡と強運を必要としたが、それは往々にして自分を救うだけの力しか持たなかった。誰もが、家族の誰かしらを失っていた。
「移送の専門家」ブルナーは、1941年の2月から3月にかけて、再び多くのユダヤ人をウィーンからポーランド中南部キールスへと移送する。そして10月にはさらなる数のユダヤ人が東方@死地へと移送された。
さて、オーストリアでその辣腕を発揮したブルナーは、1943年になると第三帝国占領下のギリシャへと飛ぶ。サロニキスやマケドニア、サラスといった地域に在住していたユダヤ人の東方送りの陣頭指揮を執り行い、結果、サロニキスに至っては実に96%のユダヤ人が移送されたという。
同年5月にブルナーがそこを立ち去るまで、50,000人余のユダヤ人が死地へと送られた。そして処刑と飢餓と過酷な強制労働の結果、戦後生きて故郷へ帰って来ることができたのは、わずかな数の若者だけだった。母子、妊婦、老人、病人は役立たずとして、迅速に殺害されたという。
7月になると、ブルナーSS大尉の活動の場は今度はフランスへと移った。それはパリ郊外のダランシーにあった拘置所の監督である。それまで拘置所はヴィシー・フランス政府によって管理・運営されていたが、ブルナーの赴任と同時に収容者の待遇は一気に悪化した。拘置所はアウシュヴィッツ送りとなるユダヤ人ための一時収容所として使われることになった。
その頃から、ブルナーは逮捕の対象を当該ユダヤ人のみならず、その親類にまで拡大させるようになった。要するに、一族郎党根絶やしにしようということである。
trans.jpgブルナーはパリのSS行政官として、当地の「ユダヤ人専門家」、ハインツ・ルートゲルSS大尉と共にユダヤ人の摘発に精を出し、強制収容所や絶滅収容所への“供給”を間断なく続けた。また密告を奨励し、通報者には報奨金として1,000フランを支払った。密告に基づく逮捕は大概夜更けに行われ、逮捕者はゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei=秘密国家警察)の取調室で脅迫や拷問が徹底して加えられた。その自白によって、さらなる仲間の居場所を引き出そうというシステムである。
その年の秋、ユダヤ人の“狩り場”の地域はイタリア統治下の南フランスにまで拡大された。ブルナーの“仕事”は終わらなかった。
1944年6月6日のD-デイ、連合軍によるノルマンディー上陸から第三帝国の雲行きはいよいよ本格的に怪しくなる。パリの街を闊歩していたドイツ兵たちが足早にそこを去って行く中、しかしブルナーは踏み留まって相変わらず職務に専念していた。7月にはパリの1,327人のユダヤ人の子どもたちがアウシュヴィッツへ送られた。8月にようやくブルナーがパリから離れるまでに、延べ22回の移送、23,500人余のフランス在住のユダヤ人がアウシュビッツへと送られたのだった。
1944年の9月から翌2月まで、第三帝国崩壊が序曲から佳境へと向かう中、それでもブルナーは職務に忠実だった。ブラチスラヴァ、スロヴァキアといった地域でブルナーは己が任務をひたすら忠実に遂行し続け、かの地の12,000人余のユダヤ人を「死のキャンプ」へと送り込んでいたのだった。

そして戦争の終結と共に、アロイス・ブルナーSS大尉は忽然と姿を消すのである。

ブルナーはどこへ逝ったのか。


戦後しばらくの間、アロイス・ブルナー元SS大尉は偽名を使い、アメリカ軍の輸送トラックの運転手としてリンツとミュンヘンを往復する日々を送っていた。その間、妻のアニ・ブルナーは戦争未亡人としてウィーンに戻り、長女のイレーネを出産している。長女の出産後、ブルナーは密かにウィーンに戻り、足繁く妻と娘の元に通っていたという。
しかし1946年になると、ウィーンで戦争犯罪者「アロイス・ブルナー」の名と、その逮捕状が出たこと囁かれはじめる。危険を察知したブルナーは、その身を「ゲーレン機関」に寄せることにした。

Gehlen.jpg「ゲーレン機関」とは、アメリカのCIA(当時はCIG)の支援の元に、ドイツ国防軍中将だったラインハルト・ゲーレンが設立した西ドイツ最初の諜報機関であり、現在のBND(Bundesnachrichendienst=連邦情報局)の前身でもある。ゲーレンは対ソ戦当時、ソ連に反発するバルト地域の出身者やソ連軍捕虜を巧みに活用し、アプヴェール(Abwehr=ドイツ国防軍情報部)やSDとも異なる独自の諜報網の確立に成功した、対ソ諜報のエキスパートであった。米ソの東西陣営の対立が日に日に香ばしくなっていた当時、アメリカはゲーレンの対ソ諜報能力を高く評価し、彼を新諜報機関の長として白羽の矢を立てたのである。
ゲーレン機関発足当時の諜報員は、元SS(含SD)や元ゲシュタポがやたら多かった。というのも、そもそもが対ソ戦略を目的に諜報機関を設立したため、大戦中に高度な対ソ諜報網を確立していた彼らの置き土産をどうしても必要としたのである。加えて、西ドイツが東側陣営との境に位置している以上、西ドイツ諜報機関は必然的に当初から高い諜報能力が求められていた。つまり、素人集団でスパイごっこというわけにはいかなかったのである。そしてその香ばしき過去とは別に、SSやゲシュタポには諜報活動に関してズバ抜けて優秀な者が多かった。そのためCIGとゲーレンは、過去の戦争犯罪の不問を餌に、彼らを釣らざるを得なかったのである。
こうして、ゲーレン機関には追われる身の元SSや元SDや元ゲシュタポたちがぞろぞろと集まることになった。アロイス・ブルナー元SS大尉もまた、そうしたひとりであった。
追われる者たちの避難所と化したゲーレン機関において、ブルナーは「カール・シュパーク」の名で対ソ諜報活動に従事することになった。

しかし安泰はそう長くは続かなかった。

1954年1月5日、フランスの法廷はアロイス・ブルナー元SS大尉に対し、本人不在のまま「不当逮捕」、「虐待」、「略奪」、「傷害」、「殺人」の罪で有罪判決(死刑)を下した。判決を受け、復讐に燃えるフランスはブルナー包囲網を激しく強化し、今やその所在を確実に絞り込みつつあった。ゲーレン機関の傘の下にいるとはいえ、このまま欧州にいては自分の逮捕は時間の問題と危惧を募らせたブルナーは、欧州大陸からの脱出を画策し、ゲーレン機関の“同志”たちに助けを求めるのだった。
その“同志”のひとり、ブルナーのパリ時代からの盟友でもあるルドルフ・ビルトは、ゲーレン機関の諜報員であると同時にODESSA(Organaisation Der Ehemaligen SS-Angehorigen=元SS隊員組織:オデッサ)のメンバーでもあった。ビルトは「バチカン・ルート」でブルナーをヨーロッパから脱出させることにした。

「バチカン・ルート」を経由し、欧州大陸から脱出した元SSの数は実に多かった。アイヒマンをはじめ、「ガス殺トラック」の考案者ヴァルター・ラウフ、ゾビボル強制収容所所長だったグスタフ・ワグナー、「リヨンの虐殺者」クラウス・バルビー、「ゲシュタポ・ミューラー」ことハインリヒ・ミューラー、「アルデアティーネの大虐殺」の処刑人エーリヒ・プリーブケといった層々たる顔ぶれが、バチカン・カトリック教会の庇護の下、素性と過去を隠して南米や中東、あるいはアメリカ合衆国といった新天地へと向かったのである。
hudal1.jpg逃亡の段取りのほとんどは、バチカン・カトリック教会の司教、アロイス・フーダルの手によるものだった。フーダル司教は強力な反ユダヤ兼反共主義者であり、カトリック教徒もナチの弾圧対象であったにも関わらず、熱烈なるナチのシンパであった。彼は事あるごとにナチとカトリック教会との統一を熱く語っていたという。
フーダル司教は逃亡者のためにパスポート、出国ビザ、労働許可証といった書類を一揃え用意してやり、宿泊所を整え、移動手段を確保し、賄賂や非常時のためにと資金援助までしていた。
また、フーダル司教は西ドイツ赤十字、進駐軍(アメリカ)、さらにはMI-6(イギリス諜報機関)にまで幅広く顔の利く人物でもあった。こうした顔役的な機関を抑えているということは、すなわち逃亡がより容易になることを意味していた。
そんなフーダルの人脈・金脈をフル活用し、追われる者たちはバチカン経由で続々と南米や中東へと逃走した。その数は30,000人余とも言われており、ドイツ人やオーストリア人に限らず、数千人のウクライナ人やラトビア人などのナチ協力者たち(含SS義勇兵)もそこに含まれた。
この「バチカン・ルート」の完成された逃走経路に比べれば、ODESSAやDie Spinne(=The Spider:蜘蛛)といった元ナチのための支援組織などアマチュアに等しいとさえ言われている。
いずれにせよ、ミュンヘン、ハンブルグ、エッセン、ボンといった各地の同志たちのアジトを転々としながら、オランダのアムステルダムへ抜けたブルナーは、そこからローマに飛んだ。そこでフーダル司教の助け得て偽のパスポートを手にした彼は、エジプトのカイロへと姿をくらますのだった。

そしてその年の春、「ゲオルグ・フィッシャー博士」なる人物が、シリアはダマスカスの地に降り立った。

アロイス・ブルナー元SS大尉は、新しい名前と新天地を手にしたのである。


それから数年、ブルナーはシリアでドルトムントのとある醸造会社の代理人として働いた。しばらくは平穏な日々であったが、追及の手はこの中東の地にも及ぶのだった。
1959年、ブルナーのシリア逃亡が濃厚と踏んだ西ドイツ、オーストリア、フランス、ギリシャの4ヶ国は、シリア政府に対し、アロイス・ブルナー元SS大尉、今はゲオルグ・フィッシャー博士を名乗るその人物を、戦争犯罪者として身柄を引渡すよう要求した。しかしシリア政府はそのような人物はわが国には存在しないと一蹴。そしてその時から現在に至るまで、シリア・アラブ共和国はアロイス・ブルナーの存在を一貫して否定し続けているのである。
むしろこの身柄引渡しの要求によって、シリア政府はフィッシャー博士の正体を知ったのかも知れない。SSとゲーレン機関を渡り歩いたその“華麗”な経歴を活かさぬ手はないと考えたのだろう。1960年、シリアの諜報機関であるイダラート・アル-アムン・アル-アンム(総合保安庁)は、ゲオルグ・フィッシャー博士ことアロイス・ブルナー元SS大尉に接触し、彼を「ユダヤ人問題の専門家」として迎え入れたのである。既に彼のための新しい住居も用意されていた。
かくして、アロイス・ブルナーは再びスパイとしての生活に舞い戻ったのである。しかも今度はただの諜報員ではなかった。腕と頭脳と経験とを買われ、組織の「顧問」として招聘されたのである。当時まだ未熟だったシリア諜報機関を“プロ”にすべく、ブルナーは己が培ってきた経験と成果を彼らに注ぎはじめるのだった。
eichman1.jpg同じ年の5月、ブルナーの“師匠”であったアドルフ・アイヒマン元SS中佐が、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関「モサド」のピーター・マルキン率いるチームの手により逮捕、というより誘拐された。睡眠薬を打たれて眠らされた彼は、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空の旅客機に押し込められ、イスラエルへと送還された。

アイヒマンはエルサレムの地で裁判に付された。

シリアから程遠くない場所に位置する、ユダヤ人の国イスラエル。

ブルナーの動向を、彼らは指をくわえて眺めていたわけではなかった。むしろ、もっと直接的な行動をもってアプローチを掛けるのだった。アイヒマンが逮捕され、ブルナーがシリア諜報機関の顧問となった翌年、彼はモサドから一通のラブレターを受け取った。一見無害なその手紙は開封した途端に爆発し、ブルナーは片眼を失った。
その1961年という年は、片眼を失っただけでなく、ブルナーにとってはいろいろと厄介な年であった。フランスの諜報機関SDECEは、ブルナーのシリア在住を完全に突き止め、在シリアのナチ戦犯リストに彼の名を公式に含めた。また11月には、パリ時代にタッグを組んでいたハインツ・ルートゲル元SS大尉が逮捕された。ルートゲルは戦後、フォルクス・ワーゲンの顧問弁護士として働いていたのだった。
Eichmann2.jpgしかしこうした数々の不穏な事実も、ブルナーには一時的な効果(不安)しか与えることができなかった。
それは1962年に執行されたアイヒマンの処刑とて同じであった。

ブルナーは精力的にシリア諜報機関イダラート・アル-アムン・アル-アンムの師として、彼らの「教育」に心血を注いでいたのである。ユダヤ人に関する知識、逮捕術、暴徒の鎮圧方法、効果的な尋問、確実に自白を引き出す拷問といったレクチャーを続け、同機関の成長と発展に貢献・寄与し、その香ばしさの礎を築くことに成功していた。
こうして、半ば機関の影の長として君臨したブルナーには数々の伝説も生まれるようになった。アイヒマンを救出すべく特殊作戦を画策したとか、ブルナー個人のためのシリア人親衛隊を組織したとか、ハフェズ・アサド大統領の側近になったとか…。
冷静に考えればありえねえだろと言いたくなるような話ばかりではあるが、それはシリアにおけるアロイス・ブルナーの存在と、彼がそこで担った部分の大きさ、与えた影響の度合いを物語るひとつの側面なのかも知れない。
シリア政府の手厚い保護の下にいる限り、ブルナーは安全だった。

しかし、追っ手は彼を忘れたわけではなかった。

1980年7月、ゲオルグ・フィッシャー博士宛に、オーストリアの消印の付いた一通の手紙が届いた。差出人は「ハーブ友の会」とあった。その謎の協会名に、ブルナーは“同志”の香りを嗅ぎ取ったのだろう。だからこそ無警戒にブルナーは封を開けたわけだが、20年前と同様、その瞬間手紙は爆発し、彼の左手の4本の指を吹き飛ばした。それはモサドからの2通目のラブレターであった。
以降、シリア政府はブルナーの身辺警護をより一層強化し、常時護衛が付くようになったという。


政治・外交上では、戦争犯罪に問われている元ナチ親衛隊員のアロイス・ブルナー、あるいはゲオルグ・フィッシャー博士なる人物はシリアには存在しないし、過去にも存在したことはない、ということになっている。
しかしながメディアにおいては、ブルナーは間違いなくシリアに存在することが証明されている。というか、どういう風の吹き回しなのか、彼は自ら姿を現したのだった。
brunner3.jpg1985年、西ドイツの雑誌「Bunte・11月号」は特集記事として、シリアの首都ダマスカスで暮らすアロイス・ブルナー元SS大尉のインタビューと近況写真を掲載した(参考:「Simon Wiesenthal Center Multimedia Learning Center Online」、アロイス・ブルナー関連資料『62』~『74』)。
そのインタビューの中でブルナーは語っている。

「戦争中、私はやましいことは何ひとつしていない」
「イスラエルが私を捕まえるのは絶対無理だ」


それを受け、イスラエルの国連大使ベンジャミン・ネタンジャフは、国連総会において「ブルナーは今も変わらずシリアで暮らしている」と訴えた。
1987年には、ブルナーは「シカゴ・トリビューン」紙のインタビューにも応じ、また「シカゴ・サン・タイムス」紙との電話でのインタビューではこう答えている。

「ユダヤ人は死に値するんだ。 私はまったく後悔していない。機会があるなら、私は再びそうするだろう」

さらに、オーストリアで季刊誌「Halt」を発行しているジャーナリスト、ゲルト・ホンジックとは彼の著作「Freispruch fur Hitler?」のために、ダマスカスのアパートで長時間に及ぶインタビューに応じている。
ホンジックは、ブルナーは気難しい怒りっぽい老人であり、信頼を得るためには長い時間を要したと言う。
そのインタビューの途中、ホンジックはブルナーに尋ねてみた。

ホンジック:あなたはユダヤ人の毒ガス殺人についていつ知りましたか?

ブルナー:戦後。新聞でさ!


ホンジックはブルナーが関わった領域はあくまで「強制移送」の部分であり、大量殺人には直接関与してないと位置付けている。ホロコーストは連合国のプロパガンダだと信じてる節すらあるという。要するに、彼は職務に忠実なナチの官僚ではあったが、人格そのものに問題があるわけではないという見立てである。その一端を物語る例として、ホンジックはひとつのエピソードを挙げた。

1941年頃、ブルナーはとあるユダヤ人と奇妙な信頼関係を築く。その相手とは、「ウィーン戦時ユダヤ人協会」会長のヨーゼフ・ローウェンヘルツである。ローウェンヘルツはパーラス博士、ワイツマン秘書官、トロッペル財務担当官を伴い、ドイツの公式認可の下、「世界ユダヤ人議会」の代理としてポルトガル(当時中立国)のリスボンでブルナーと面会した。ローウェンヘルツらは、第三帝国統治下のユダヤ人の大量避難についての交渉にやって来たのだった。それはドイツ(含オーストリア)在住のユダヤ人を、連合国(イギリス)に拘留されている多数のドイツ人と交換しないかという提案だった。もっとも提案自体は物別れに終わったのだが、その時の様子をブルナーはこう述懐する。
「私のオフィスに入った時、ローウェンヘルツは泣いていたんだよ」
会合の過程で、ブルナーはローウェンヘルツの人格に深く打たれることになる。
「あのユダヤ人のリーダーは本当に高貴な人だった…」
と、ブルナーは語る。インタビュアー(ホンジック)は意地悪く質問をしてみた。
「彼がユダヤ人だとしても?」
「彼は例外なんだ!私を試そうとするんじゃない」


いずれにせよ、ブルナーの計らいにより、ローウェンヘルツと彼の家族は最後まで拘束・移送の対象とはならず、戦後になってローウェンヘルツは、公式の場でブルナー擁護の発言を繰り返した。
とはいえ、ブルナーの手によって125,000人余のユダヤ人が「死のキャンプ」に追いやられた事実は変わらない。彼のいくつかのメディアへの露出によって、同年、インターポール(国際刑事警察機構)はついにブルナーの生存と所在が確認されたとし、「Red Notice(国際的な逮捕状)」を発行した。※現在は解除されている模様
それでもブルナーは捕まらなかった。いくらブルナーがメディアに露出しようとも、シリア政府がその存在を公式に認めない限り、各国はどうにも動けないのである。イスラエルとて、もう手紙爆弾は通用しないだろうし、ましてやアイヒマンのように強引にさらうという挙を犯すわけにもいかない。
ブルナー捕獲作戦は手詰まりになりつつあった。比例するように、ブルナーがメディアに登場する機会も減った。1990年代の初頭、最後に彼にインタビューしたのは、「ワルシャワ反乱・見殺しのレジスタンス」を書いたドイツの戦史家、ギュンター・デシュナーだった。


結局、アロイス・ブルナーはどうなったのか。

どうにもならないままである。しかし罪は消えることはない。1995年、ドイツ政府はブルナー確保に繋がる情報に333,000㌦の懸賞金を掛けた。1999年、フランスの法廷は1944年にブルナーがユダヤ人の子どもたちをアウシュヴィッツに送り込んだ件で、345人についてその事実が証明されたとして終身刑を言い渡した。しかし本人は不在である。さらに2001年、「人道に反する罪」でブルナーに対し、再び終身刑を言い渡した。もちろん本人不在のままである。

断罪はされたものの、当の本人はまだ生きているのか。

Brunner5.jpgそれもわからない。諸説入り乱れている。ひとつの説としては、ブルナーは1991年10月までダマスカスで暮らし、その後ファヘズ・アサド大統領の故郷でもあるラタキア市に移ったということである。
そして1999年の終わりにまことしやかに流れた話としては、彼は1996年、そのラタキアの地で死んだということである。
しかしながらその後、シリアを訪れたあるドイツ人ジャーナリストは、ダマスカスのメリディアン・ホテルで暮らすブルナーの姿を見たと言う。

結局、真相はわからない。

しかしブルナーの戦争犯罪に対する判決は、彼がまだ生きていることを前提に下され、彼の拘束をまだ諦めていない人々も存在する。「アウシュヴィッツの死の天使」ヨーゼフ・メンゲレのように、その死が間違いなく証明されない限り、ブルナーに対する追及は止むことはないだろう。かといって、進展も期待できないわけだが。
ただ少なくとも、人間の寿命としてそれ以上生きることはあり得ないとされる年まで、彼は追われ続けるのだろう。それはもしかしたら、既にこの世にいない人間を追い求めることになるのかも知れない。しかし、死んだことがはっきりしてない以上、彼は生きているものとして捉えねばならないのだろう。

まもなく、彼は95回目の誕生日を迎えようとしている。確かにそれは激しく高齢ではあるが、死んだと言い切れる年齢でもないのだ。

たとえばエーリヒ・プリーブケ元SS大尉は、今日もまだ、今この瞬間も生きている
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コメント

検討はしてるが私の腰が重いのが問題だ。

久々に読み応えのあるものを見たな。

話は少し違うが、、、
ユダヤ問題とナチズムの根本と本質というのか、惹かれる心情を捉えるのは、中々に難しいものよね。

いっそ別コンテンツにしてログに埋もれないようにしれみては?

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